◉ありがとうおかげさまの1日
仏教は究極のネガティブ思想です。「人生は苦である」という前提から始まります。究極のネガティブから始まるのですから、あとはポジティブとネガティブを繰り返しながら、少しづつ人生のあり方に気付いていけばいいのだと思います。生き辛さを感じざるを得ない日々であっても、それを縁として、仏教(縁起)の気付きを深めていくこともできるのではないでしょうか。
最初の説法の場で「人生は苦である」と説かれたお釈迦さまは、その最晩年の旅の途中で大自然の景色を眺めながら、「ああこの世界は美しい。人生は甘美である。」と感嘆されたといいます。
仏教は、苦を楽に転じるための、苦楽を越えて極楽に至るための教えです。悪だと思っていたことが、善に転じる可能性だってあるのです。嫌なやつだと思っていた人とも、ちょっとしたことで仲良くなれることもあるかもしれない。
そんなことだってあるかもしれません。そうあったらいいなあと願います。
親鸞聖人の著作である『教行信証』の総序に、「遇いがたくして、今、遇うことを得たり」というお言葉があります。「遇」という文字には「思いがけなくたまたまに出会う」という意味合いが含まれるようで、聖人は仏教や南無阿弥陀仏とのご縁を言う時に、この字を用いられています。
当たり前のように思っている今日の出遇いは、実はたまたまのご縁によって起きている「ありがたい」ことなのだと思います。有ること難し、まさに「有り難し」です。
目には見えないけれども陰となってはたらく、さまざまなご縁の力があってこそ、いまここの出遇いがあります。本当に「お陰様」だと思います。本当に不思議なご縁です。
お陰様で、有り難く、今日1日の出遇いがあります。一日一日の、一回一回のご縁が、かけがえのない「遇」なのだと思います。善いことも悪いことも、このかけがえのない出遇いのなかで起きていることであって、生きていてこその、今日1日です。
いつもそばにいる人であっても、明日も一緒にいられるとは限りません。
それぞれに今日とは違う明日を生きるのであって、
いつも一度切りの、いまここに、出遇っているのです。
善いも悪いも、縁は縁。
いつも「一期一会」と思って、
いつも新しい気持ちで、
今を生きていたいものです。