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はじめに・いまあるご縁の方々へ
心がうきうきとして楽しくて嬉しくて、何かに夢中になっているようなときに、人間とは何か? 人生とは何か? なんて考えることは、まずありません。苦しみや悩みを自分の内に抱え込んで、どうしようもなく辛くて悲しくてやりきれなくなったときに、それを「縁」として、はじめて仏教に出遇うのだと思います。 親しい人との離別は、誰もがいつかは経験しなければいけない出来事です。そんなときには悲しみの感情だけで
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① 親さま・仏さま・阿弥陀さま
私がまだ小さな子供だった昭和の頃には、今よりもずっと、お寺が地域の生活に密着してあって、お寺参りを日常的な習慣にしている方々が、まだ多くいらっしゃいました。今ほど長命の時代ではなかったので、若くしてお父様やお母様、お子様などを亡くされた方々が、死別をご縁としてお寺参りを始められるということも少なくなかったようです。まだ戦後2、30年しか経っていない頃だったわけですから、戦争でお身内を亡くされた方
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③ ひとのこころせつなし
他者を思い遣る気持ち、慈悲の心は、誰にでもあるはずです。けれども私たちの心は自分本位で、自己中心的で、誰かに何かをしてあげるといっても、見返りを期待するような損得勘定が働いたりもします。ひとのことを心配したり手助けしたいと思ったりても、いつでもどこでもだれにでもというわけではありません。自分にとって好ましく感じる人でもなければ、自分からその手を差し伸べようとはしないこともあります。ひとのことを想
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④ みんなちがってみんないい?
夭折された詩人・金子みすずさんの詩に「みんなちがってみんないい」という言葉があります。みんな違うということは、何も取り立てて道徳的であったり倫理的であったりするわけではありません。元々に人は皆それぞれに異なるものとして存在しているのですから、私たちはただその「多様性」の事実に気付き、それを肯定しなければいけないだけなはずなのです。一人ひとりが、かけがえのないただ一人であることを、認めなければいけ
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⑥ 願いのエネルギー
浄土真宗の門信徒には、ご本尊として仰ぐ阿弥陀仏を、親しみを込めて「親さま」と呼ぶ習慣があります。浄土真宗の先人方は、人と人とを区別することなく、差別することなく、依枯贔屓することなく、等しく見守る仏の心を「真実の親心」と表現されました。私はこの「親」という観念を、「根源的生命エネルギー」と捉えています。生きとし生けるすべてのものが生じるための基盤としてある、すべての生命の根源を、先人方は「親さま
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⑦ 真心のすがたかたち
浄土真宗のお寺の中央には木像の阿弥陀如来が安置してあります。ご門徒方のご自宅にある仏壇の中央にも、絵で描かれた阿弥陀如来が掛けられています。この像に向かって合掌し、お念仏を称えるのが、浄土真宗の礼拝の基本的なスタイルです。礼拝の対象となる阿弥陀如来の像を「方便法身尊像(ほうべんほっしんそんぞう)」といいます。「嘘も方便」などということわざもありますが、仏教で言われる本来の「方便」という語は「人々