夭折された詩人・金子みすずさんの詩に「みんなちがってみんないい」という言葉があります。

みんな違うということは、何も取り立てて道徳的であったり倫理的であったりするわけではありません。元々に人は皆それぞれに異なるものとして存在しているのですから、私たちはただその「多様性」の事実に気付き、それを肯定しなければいけないだけなはずなのです。

一人ひとりが、かけがえのないただ一人であることを、認めなければいけないのです。

みんなちがってみんないいとは、誰もがみんな「ひとり」であって、その集まりが「みんな」であるということです。身勝手な思い込みや決めつけをしないで、あるがままに多様であることを、各自に固有の特性があることを、認めることです。

 

けれども私たちはそんなに寛容であるばかりではなく、他者の個性を認める気持ちよりも、自分のことを認めてほしい気持ちの方が、圧倒的に強いもののようです。

親の立場があれば、子の立場だってあります。姉の立場、兄の立場、妹の立場、弟の立場。親類の立場もあれば、友人の立場もあります。みんな自分の立場から見ることしかできません。人は皆それぞれに、自分本位に相手のことを見て、思い込んだり決めつけたりするものなのでしょう。

親しき仲にも礼儀ありといいますが、身近に思う関係であるからこそ、それだけ礼儀を忘れがちになるのかもしれません。

自分が産んだ、自分の育てた子供であったとしても、親のものではありません。自分の親だから、兄弟だからといって、何を言ってもいいというわけではありません。親として、子として、姉として、兄として、妹として、弟として出会った、一人ひとりの人間なのです。

各々の思いがあっても同じではなく、好ましく思うこと・好ましく思えないことは、ひとそれぞれに違うのです。

 

みんな違うからこそ、かけ違ったり、くい違ったり、すれ違ったり。思い違いしたり、勘違いしたり。人それぞれに違うということによって、様々な問題が起こります。

「みんなちがってみんないい」と一言で言えるほど、私たちの心はシンプルではありません。

うらみ、つらみ、ねたみ、ひがみ、そねみ、いやみ、やっかみ。複雑な人間関係の中で、さまざまなコンプレックスを抱えながら生きざるを得ません。

「みんな違うんだから、わかりあえなくたっていい。」

そんな気持ちに閉じこもって、塞ぎ込んでしまうことだってあります。

自ら孤立してしまうこともあります。

 

『仏説無量寿経』という仏典には、「独生・独死(どくしょう・どくし) 独去・独来(どっこ・どくらい)」という言葉があります。人は皆、独りで生まれて、独りで死ぬ。誰も皆、この世に独りで来て、独りで去っていくのだというのです。

みんなの中に生まれて、みんなと共に生きていかざるを得ないことも事実ですが、誰一人として例外なく、ただひとりの個人であることも、もう一つの事実です。

かけがえなくただ一人の自分は、どうしようもなく孤独な存在でもあるのです。

さまざまなご縁のなかで、ひとり生まれ、一人ひとりが出会い、さまざまなご縁とともに、一人と一人として別れていく。そこでは人生の悲喜こもごもがあって、愛し合うこともあれば、憎しみ合うこともあります。

さまざまなご縁があって、いろいろなことがあって、最期は誰もが、一人で死んでいくのです。

これが人生の実状であり、真相であることを、仏典は示しているのでしょう。

 

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