現代社会においては、簡単にオンオフすることのできる人工的な電気があるので、いつでも視界を明るくすることができます。ネオンやヘッドライトやコンビニなどの光が、明るく夜の街を照らしています。
けれども文明以前の人類の起源にまでさかのぼってみるなら、松明や行灯、ランプなどの明かりさえ無い時代だったのですから、昼間を照らす「日光」や、夜間を照らす「月光」こそが生活の頼りとなる明かりだったのでしょう。
太陽や月の光だけではなく、LEDや炎や電磁波など、私たちの世界には様々な光が視界を照らしています。けれどもそうした光というのは、何か物質的なものを介して、反射したり、散乱したり、屈折したり、分散したりすることによって認識される光です。何らかの物質的なものに干渉されることによって、ようやく私たちにも認識できる光になるということです。
科学的には「光は波動である」と定義されたりしますが、波を打って動くことのない光は、人間の尺度では認識できないだけなのかもしれません。仏教では「寂光」という、静かで安らかな光のあることが伝えられます。
物理学において「光は粒子である」という説がかつてはあったようですが、仏教においては、固定的な最小単位としてある物質のようなものを光であるとは捉えていません。最先端の現代量子力学で光についての解明がどこまで為されているかは、到底私の知識や理解の及ぶものではありませんが、仏教では、観察者と観察対象に分けるようなやり方では認識できない光があると説かれているのです。
十二光の最後には「アミターバ(阿弥陀のひかり)」とは、日光や月光を遥かに超えた「光」であることが示されます。その光に照らされるなら、太陽や月の光さえも「墨のかたまり」のようなものであるのだと、お経には譬えられています。その光を[超日月光]といいます。
超日月光照塵刹
ちょうにちがっこうしょうじんせつ
塵刹(じんせつ)とは塵(ちり)のように無数にある世界という意味です。大宇宙に数え切れないほどに存在する星々をイメージするとよいでしょう。「アミターバ(阿弥陀のひかり)」は、宇宙空間の隅々までの、すべての星々を照らしています。
果てしない宇宙の広がりの遥か向こうにあるものから、この部屋の中を漂うほこりのようなものにいたるまで、その光はこの世のすべてを照らしています。
生きとし生けるあらゆる生命体を照らしているというのですから、もしも太陽系とは別の惑星に何らかの生命体が存在していたとしても、私たちに届いている光と同様の光が、そこにも届いているはずなのです。
一切群生蒙光照
いっさいぐんじょうむこうしょう
一切(いっさい)とは、余すところなくすべてという意味です。お互いに依存しながら群れるようにして生きているすべての存在が、その光に照らされています。私たちは自分の基準で、善い人・悪い人、優れた人・劣った人、好きな人・嫌いな人、貧しい人・富める人と、勝手な判断をして区別していますが、どんな人にもその光は平等にとどいています。
世界には多様な宗教がありますが、「ひかり」と「いのち」について言わない宗教は無いはずです。それは、地球上のすべてのものが「ひかりといのち」に関わらないではいられない、この世界の本質的なものだからなのだと思います。