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(01)無量光 (02)無辺光
十二光の最初が[無量光]です。先に「帰命無量寿如来」の語句説明をした際に、無量寿とは「量ることの出来ないいのち」という意味であることをお伝えしました。はかるという言葉は、量るとも、測るとも、計るとも表記されますが、どれも何か大きなところから限定的に「分ける」ことをいいます。山盛りの中から一杯分をすくってその重さを量ったり、点と点の間の長さを物差しで測ったりして、大きな全体から部分に分けて「
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(03)無碍光 (04)無対光 (05)光炎王光
正信偈の62句目には「帰命無碍光如来」という一文が出て来ます。これは、1句目の「帰命無量寿如来」と対句の関係を為しています。量り知れないいのち[無量寿]は、碍(さまたげ)の無いひかり[無碍光]とも言い換えられるわけです。永遠無限の量り知れない寿(いのち)は、何ものにも妨げられることなく、どんなことも障害としない光だというのです。私たちの世界では光があれば、影があります。光源から放たれた光が
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(06)清浄光 (07)歓喜光 (08)智慧光
仏教では、私たちの心には ①貪欲(とんよく)②愼恚(しんに)③愚痴(ぐち)といわれる「三つの毒(三毒の煩悩)」があると説かれています。それは、①欲しがる心 ②怒る心 ③愚かな心 の三つです。どんなひとでも自分の胸に手を当てて内なる心を見つめてみれば、三毒に日々煩い悩まされているものではないでしょうか。このような心の状態を、仏教では「無明(むみょう)」といいます。真実をありのままに見ることが無く、心が
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ひかりはいのち いのちはひかり
「アミターバ(阿弥陀のひかり)」は、永遠無限の光であって、分けられることの無いただ一つの光です。しかしその性質は多様に表現されて、「十二光」の名を以て私たちに明らかにされます。その光は、果てしなく広がり満ち満ちている光(無量光・無辺光)であり、何者にも妨げられることのない光(無碍光・無対光・光炎王光)であり、無明の煩悩を打ち破る光(清浄光・歓喜光・智慧光)であり、思慮分別に越え優れた光(不
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そして『アミタ-ひかりといのち-』へ
私たちは、それぞれが主人公としてそこに立つ、「表舞台」に生きています。 そして、そのステージにはスポットライトが当てられていて、舞台の上をいろいろに照らし出しています。 喜劇もあれば悲劇もあって、人間ドラマの明暗が、色とりどりに演じられます。 舞台上の登場人物たちは、それぞれの役割を演じながら、いろいろにその命を輝かせあっています。 &nbs