私たちは物事を二元論で相対的に分別して理解しようとしがちです。勝ち負け、正誤、善悪、美醜などというように二つに分けて、それを固定化して認識することで、物事を自分の価値観で判断しようとする習性があります。まずは主体と客体の二つに分けて、自分の基準で対象を把握しようとするのです。こうした知性のあり方を、仏教では「分別知(ふんべつち)」といいます。

言語の構造自体が、本来は意味のない音や文字の連なりを単語や文節に「分けて」認識して、その意味を「分かろう」とするものです。私たちの使う言葉はその性質上、基本的には「分別知(ふんべつち)」の領域にあるものです。

 

しかしながら言葉には、そのような論理的知性の領域をはるかに超えてはたらく、不思議な力があるようです。分かれていない、分からない、そうした領域を伝える言葉もあるのです。「分別知」を越えてはたらく理性のあり方を、仏教では「無分別智(むふんべっち)」といいます。

無分別智とは、ものごとを分けて見ない、あるがままにひとつとして見る直観的で超越的な理性です。人間の分別的な知性を「知恵」と記すなら、分別を越えてはたらくそれは「智慧」と表記されるものです。

 

思議というのは「思いはかる」ということであって「思慮分別」という意味です。「不可思議」という言葉は「思慮分別の範疇を超える」ということで、「思い難し」とも言い換えられます。

人間の知恵でははかることのできない、思いはかることのできない、そのような領域があることを明らかにしようとするのが[難思光]のはたらきです。正信偈の二句目に「南無不可思議光」と称される光は、そのまま[難思光]とも言い換えられます。

 

>>(11)無称光

 

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