正信偈の62句目には「帰命無碍光如来」という一文が出て来ます。これは、1句目の「帰命無量寿如来」と対句の関係を為しています。量り知れないいのち[無量寿]は、碍(さまたげ)の無いひかり[無碍光]とも言い換えられるわけです。永遠無限の量り知れない寿(いのち)は、何ものにも妨げられることなく、どんなことも障害としない光だというのです。
私たちの世界では光があれば、影があります。光源から放たれた光が何かに遮られれば、そこには影が現れます。けれども、阿弥陀の光、無量寿の光[無碍光]は、あらゆる光と影とを超えて、すべてのものを貫き透す、妨げられることのない光なのです。
その比類なき光は、何ものも比べること無く、分け隔て無く、一切を平等に照らします。それは対比されることの無い光なので、[無対光]とも称されます。
またその光は、何者にも邪魔されず、すべてのものを超えて君臨する頼もしく力強い光の王のようだと、擬人化しても譬(たと)えられます。その光は、火力や水力や原子力のような、人間が創り出すような光を遥かに超えた、宇宙の星々の光をも超えた、すべての光に越え優れた光の中の王者、[光炎王光]だというのです。
ただ「光そのもの」といっても、抽象的すぎて私たちには理解できません。私たちの世界にあるものに喩(たと)えられることによって、ようやくその存在が伝えられるのだと思います。
仏や如来として示される存在も、本質的には光そのものだと言ってよいと思います。けれども、なかなかそれを認識することができない私たちのために、私たちにもわかりやすい形や姿や言葉となって、表現されているのだと受け取るべきでしょう。
表現という言葉は「表に現される」と書きます。「表わして現れる」とも読めます。つまり、表現されるということは「表に現れる」ということです。その光は何らかの形をもって表に現れて、この世界に出現して来るのです。
正信偈62句目の「帰命無碍光如来」に、全方向全方位全条件を意味する「尽十方(じんじっぽう)」という言葉を組み入れると「帰命尽十方無碍光如来」になります。これで「あまねく全ての空間に満ち満ちて、何物にも碍(さまたげ)られることのない光の仏」という意味になります。
これは、無量、無辺と同義です。光炎王とも称(たた)えられるその仏が、全宇宙、すべての時空に向けて、その光を燦然と放ち誇っているイメージが現れて来ます。まさに光の中の王。
[光炎王]のごとく眩いばかりのイメージです。
『阿弥陀如来像』 画:薬師丸郁夫
その仏は名号という「かたち」にもなって、私たちにその存在を現されます。名乗りを上げるようにして、いつでもどこでも誰のところにでも、その光が届けられていることが表されます。それは誰一人見捨てることの無い、完全なる平等の光を発しています。
人間の尺度を超えた、はかり知れない、不可思議なる、何ものにも遮られることなく全てを照らす光。いつでもどこでも、どんなときにも一切を照らす「アミターバ(阿弥陀の光)」のあることが、私たちのもとに知らされます。
「阿弥陀仏」は「無量寿仏」とも言われると同時に、十二の光の性質を示す別名にも言い換えられて、「無量光仏」とも「無辺光仏」とも「無碍光仏」とも「無対光仏」とも「光炎王光仏」とも「清浄光仏」とも「歓喜光仏」とも「智慧光仏」とも「不断光仏」とも「難思光仏」とも「無称光仏」とも「超日月光仏」とも呼ばれます。
「南無阿弥陀仏」を六字名号、「南無不可思議光如来」を九字名号、「帰命尽十方無碍光如来」を十字名号といいますが、これらはどれも本体は同じです。名号とは仏さまのお名前のことをいいますが、名号の号とは「さけぶ」という意味があって、名をもって号(さけ)ぶ、ということです。名乗りを上げて、自らの存在を表現されているということなのです。
一つの光は、多様な名称をもって表現されます。多様な名称をもって明らかにされるそれは、ただ一つの真実の光です。