社会的・経済的な成功や、若さとか健康とか見た目とかのような、通俗的な価値観を疑うこともなく肯定して、それを求めて止まない私たちですが、時にその反作用として、殊更にそれを否定し、そこには全く価値が無いかのように思い込もうとするような極端さもあるようです。

それは、飲酒を好む私が飲み過ぎた翌朝に固く断酒を誓うような極端さかもしれません。ほどほどにちょうどよく節度を保つのが賢明なことは十分に分かっているつもりなのですが、失敗と年齢を重ねながら、少しずつぞれとの付き合い方を知っていくしかないというのも愚かな限りです。

それはさておき、

 

ブッダが示された「中道」は、現世肯定的な快楽主義ではなく、かといって現世否定的な苦行主義でもなく、そのどちらにも片寄らない前向きな自然体に開かれた生き方だったのだと思われます。

ある一つの事象を「正」としてそちらに大きく振れるとするなら、それに対する「反」の方向へも同様の振れ幅で起こりがちな私たちです。しかしながら、そのような極端を固定的に捉えることなく、二元的に相反する両者のどちらでもないところに、よりよい「合」を求めて前進向上しようとするのが、中道の在り方です。それは、ドイツの哲学者・ヘーゲルによって定式化された弁証法の「止揚(アウフヘーベン)」のプロセスに重なるものです。

ゴータマ・ブッダが弟子たちに向けて、実践的な中道の道程を具体的に示されたのが「八聖道(①正見②正思惟③正語④正業⑤正命⑥正精進⑦正念⑧正定)」の教えでした。それは、人や物事との付き合い方や、自分自身の生き方を、経験を重ねながら実践的に身につけていくという教えに他なりません。

 

八聖道の項目のすべてにみられる「正」という一字は、正反の二つに分けられた内一つの「正」ではなく、正反の二元を越えたところにある「正」であると見るべきものです。それは、相対的な思考を越えたところにある「合理」を示すものであり、それはまた、自然の「道理」に適っているということでもあります。

 

自然の道理に適う見方を身につけることによって(①正見)

極端な考えや言葉や振る舞いを排し(②正思惟③正語④正業)

自然の道理に適う生活をして(⑤正命)

自然体でものごとに取り組み(⑥正精進)

気持ちと思念を落ち着けて(⑦正念)

心を一つにする(⑧正定)のが、

八聖道に説かれるところの「正しい生き方」であると言えるでしょう。

 

中道を意識しながら生きることによって、煩悩が次第に取り除かれ、その人格は次第に自然とよりよいものになっていくというのが、ブッダの示された「仏道」という生き方です。

そのような生き方を日々勤めることによって、やがて⑧正定(心を一つする)を修得しながらも、それに甘んじることなく①正見の純度を高め、更に中道の精度を高めていくことによって、真実をありのままに見る「智慧」が体得されるというのです。

 

私たち人間の知性や理性の働きを「知恵」といいますが、同じく「ちえ」と発音される言葉でありながら、悟りの「智慧」が働く領域は、私たちの生きる世間の次元を遥かに超えたところのもののようです。

ものごとを相対的に分別することによって、頭で分かる領域を広げていこうとするのが「知恵」の働きです。「分別知」と言われる、私たちが生きる「世間」のはたらきです。

そのような知恵の領域を超越して働くのが「智慧」なのです。それは「無分別智」とも称される「出世間」の領域にはたらくもののようです。

ブッダの悟りとは、通常の人間の思惟とか判断とかによって到達出来るようなものではなく、ただ「目覚めたる者」であるブッダのみがありのままに見ることの出来るものであって、それは、取ることも捨てることもできないし、表象することも、心で推しはかることも、見ることも聞くこともできない「不可思議」なるものであるというのです。それはつまり、人間には思議することの出来ないものだというのです。

それはまた「不可説」であるとも言われます。不可説というのは、説くことが出来ないという意味です。それは言語の領域を超越し、言語から離脱しているということであり、言葉で語ることも文字で表すことも出来ないということです。それはつまり、人間の言葉で悟りの内容を伝えることは、不可能だということです。

覚者の智慧をもって見抜かれた、真実のありのままを「真如」といいます。それは、言葉では言い表すことの出来ない「真なるもの」としか言いようのないものであり、「如く」という言葉をもって、喩えて表現するしかないのものなのでしょう。

 

仏教の基本原理である諸行無常と諸法無我に照らして考えるならば、ブッダの悟りを絶対的固定的なものとして捉えることは、自分主観の誤りであると思わなければいけません。ブッダの悟りは言語によって解説し得るようなものではないので、あえてそれを言語化しようとするなら、究極的には「真の如く」というしかないのでしょう。

 

私たちの自己中心的な執着を拭い去り、煩悩を完全に脱ぎ去ることによって、「悟り」が得られると、ブッダは説かれました。

八聖道を「成道」することによって、

その人の身に体得されるのが「智慧」であり、

そうしてありのままに見られるのが「真如」であり、

達せられる「涅槃」であり、

成し遂げられる「悟り」であるということです。

 

思慮分別によって成り立つ人間の世界の呪縛から解放されて、認識や判断の領域を遥かに越えた無分別の、不可思議なる働きと一つになって生きることがブッダの悟りであり、これを「解脱」ともいうようです。

解(ほど)けが転じて「ほとけ」という言葉が生まれたとも言われるように、自己中心性の妄執を脱して、分別心の拘束から放たれて、煩悩の呪縛からほどかれて、人間ゴータマ・シッダルタは、仏(ほとけ・ブッダ)という「はたらき」になられたといわれます。

私はそれを、永遠無限自由自在に働き続ける「エネルギー」のようなものとして捉えるのですが、いかがでしょうか。

 

 

photograph: Kenji Ishiguro