私たちは、自己中心的な意識を固く強張らせて、対立したり、閉塞したり、断絶したりして、他者との関係性に問題を起こしがちです。

思い思いの思いがあって、自分の思うようにばかりはいかない世の中で、私たちはついつい、怒り(愼恚-しんに)欲しがり(貪欲-とんよく)愚かな行い(愚痴-ぐち)をしてしまいます。

私たちの内面にあるこれら3つの煩悩を、仏教では「三毒(さんどく)」といいますが、これらの毒を自分の心の内に持たない人はいません。

 

好きなことだけしていたい。嫌いなことはしたくない。欲しいものは欲しい。思いのままにしていたい。そんなわけにはいかないことを、そうだったらいいのにと、私たちは思いがちです。

自己中心性に基づく分別心から「我執(がしゅう)」が起こります。そしてその我執によって「煩悩(ぼんのう)」が生じます。そしてその煩悩によって、思うようにはならないことの「苦しみ」が自分の身に纏わり付いてくるのです。

自己中心的な考えに凝り固まって、思い込みや決めつけで物事を極端に見誤ってしまうと、自己欲求の不満足が増大していきます。自分自身の煩悩が、自分自身を煩い悩ませて、自分自身を苦しめるのです。

苦しみの原因は煩悩にあり、煩悩は自意識の有り様によって起こるもののようです。

 

 

前回解説した自意識の境界線も自己中心点も、諸行無常・諸法無我の原理に照らしてみるならそれは、絶対的で固定的なものとして存在するわけではなく、いつも不確かに揺れ動いているものでしかないはずです。

自意識の中心点と境界線は、様々にある外的な条件との関係性によってあるものです。すべては移り変わるものであって、すべては関わり合っているのです。ずっとそのままなわけはありません。

現実をあるがままに見るなら、物事はそんなに白黒はっきりと分かれているものではなく、常にグレーなグラデーションが澱みつつ流れているようなものでしかないのかもしれません。

 

自意識の境界線は、実際のところは、有機的な細胞膜のようなもののようにも思われます。細胞膜は、一時として休むことなく分解すると同時に生成され、外部からの養分を取り入れては内部の老廃物を排出して、絶え間なくその状態を更新しながら維持しているそうです。

細胞の中にある細胞核もまた同様に、そのなかの遺伝子情報は決して固定的なものではなく、無限の組み合わせのなかで相補的な動的平衡のシステムを保っているものだといわれます。

私たちの自意識は、様々な条件のなかで関わり合いながら変化し、
変わりながら関係し続けているようです。

 

 

ゴータマ・ブッダは、煩悩を完全に滅することによって「涅槃寂静」といわれる悟りの境地に達せられたといいます。

サンスクリット語で「ニルバーナ」と称される、煩悩の消滅によって苦しみがなくなった境地を「涅槃(ねはん)」といいます。そして「シャンティ」と称される、安らぎと平和の状態を「寂静(じゃくじょう)」といいます。

それはもちろん、どこか遠いところにあるような、国や地域のような場所をいうものではありません。煩悩の静まりかえった、人間の分別意識を超越した無分別の境地を「涅槃寂静」といいます。

 

煩悩に満ち満ちた苦しみの多いこの世界に絡み取られている私たちには、煩悩が滅せられて苦しみが滅せられた境地なんて、想像しようとさえ思わないのが現状でしょう。

煩悩を当然としてそれを貪ることに憚ることもなく、自分の思い通りに生きたいと思うばかりの私たちには、その境地のあることすら信じ難いのが実状でしょう。

 

しかしながらゴータマ・ブッダは、

その境地が現実としてあることを体現して示されたといわれます。

 

涅槃寂静の境地を体現するブッダの姿を目の前にして、

清らかに澄みきった真心が真実としてあることを、

それを見た人々は認めざるを得なかったということでしょうか。

 

photograph: Kenji Ishiguro