諸行無常の「諸行」とは、この世に存在するすべての事象や現象や現実のことを言います。それに対して諸法無我の「諸法」とは、私たちの認識し得るこの世界の範囲を超えて、遍く、余す所なく、分け隔てなく、例外なく、すべてのあらゆる「あるがまま」をいうものです。

それは目には見えない観念や意識の範疇にまでも及ぶものであって、それこそが真実の「ありのまま」そのものを示すものなのです。

仏教では、すべてのものごとは関係性のなかにあって、縁起して存在するものだという見方をします。縁起の理法に基づいた見方をするならば、すべての事象や現象や現実は「無我」であり、絶対的固定的な存在は一切無いということになるのです。

 

一本の木を例えにして、諸法無我の原理を考察してみましょう。

 

一本の木が平地に立っています。それをよく観察してみると、土から立ち現れている幹があって、そこから枝が広がっていて、枝には小枝が伸びていて、小枝には葉っぱが付いていたり、花や実が付いていたりします。このように一本の木といっても、様々な部分によって、それが木であることを成り立たせています。

しかもそれは、地中に張り巡らされた根っこから養分を吸い上げているからこそ、一本の木としての生命が保たれているのであって、太陽の光や、空から降ってくる雨や、そこに集まってくる動植物や微生物などの様々な働きがあって、ようやく一本の木の生命は成り立つものなのです。目には見えなくても、さまざまなものごととの関係性のなかに、その一本の木は成立しているのです。

 

一本の木を独立した個別の存在として、その存在のみを他から切り離して取り出してみようとしても、実際にはそれは不可能であることが分かります。それは、様々にある諸条件のなかに存在する一本の木であるからです。

そしてまたその木には、植物としての種目や、成長してきた樹齢の経過や、誰かによって管理されるべき所有権などという、様々な属性も備わってあるものです。様々な性質や特徴や背景との関係のなかに意味付けられたそれを、私たちは一本の木として認識しているのです。

 

人間を例に挙げてみても、頭があって胴があって脚があって腕があってというように身体には様々な部位があって、誰を親として生まれたとか、性別や国籍は何かとか、どんな職業をしているかとか、そうした属性が備わっていることも同様です。

観念上の存在としてある、円や正方形にしても、中心点や半径や円周、四辺や四角といった部分があって成り立つものですし、それは図形や幾何学といったカテゴリーに属してある概念です。

文字や言葉も同様です。それらはさまざまな組み合わせによって意味を成すものであり、それが意味する全体的な内容から離れてあるものではありません。

 

私たちが認識している「ものごと」は、絶対的で固定的な実体である「我」として存在しているわけではなく、関係性のなかに縁りて起る「現象」であるということです。

私たちが認識するような絶対的な個としての存在は「ない」と言えるし、関係性のなかに現象する存在としては「ある」と言えます。

ものごとをありのままに見るなら、あるようでない。ないようである。という均衡状態にあるということが、諸法無我の示す真実なのです。

 

photograph: Kenji Ishiguro