数ある仏教用語の中でも「諸行無常」は耳なじみのある言葉だと思います。「諸行無常の響きあり」なんてフレーズを思い出す人もいるかもしれません。

この仏教用語は、一般には「無常感」といった心情として受け取られることが多く、物事は移ろいやすく儚いものであるという情緒的な感性で、虚無感と同義に受け取られることが多いようです。

しかしながら本来の意味でいうところの「諸行無常」とは、すべての物事は一時として止まることなく、常に変化し続けているという運動性をいうものです。

諸行無常とは、私たちの生きる現象世界の「ありのまま」を言い表している言葉なのです。

 

種(A)→ 花(B)→ 実(C)

種を蒔いたから、花が咲いた。花が咲いたから、実が成った。原因Aがあるから結果Bがあるわけで、原因Bが起きることによって、結果Cが起こるということです。

すべての事象にはそれが起こるための原因が必ずあって、すべての事象はまた、何らかの結果を生むための原因にもなる、ということです。

このような「因果律」に基づく考え方は、論理的な思考を働かせて物事を推理推察する際に基本となるものの見方であり、理に適うこととして、科学的にも同意され得るものでしょう。

 

ではここで、この「因果律」の考え方を更に突き詰めることによって「諸行無常」の考察を深めていきたいと思います。

因果律とは「原因」と「結果」という二つの関係性をいうものであり、原因と結果は必ず二つが対になってあるものです。では、ここでの関係性を「スタート」と「ゴール」に置き換えて考えてみましょう。

 

スタート(原因)したからゴール(結果)する。ということは、スタートした限りは必ずゴールがある。とも言えることです。どこかを目指して出発した限りは、必ずどこかに到着するはずです。

けれども、そこがゴールだからといってずっと止まっていられるかというとそうはいかず、その地点からスタートして、また次の目的地への移動が始まります。

 

例えば1日が終わって家に帰るとき、電車に乗るとしましょう。

目的の駅まで電車に乗ってその駅に着いたら、今度はそこから真っ直ぐ家に帰るか、夕飯を買いにスーパーへ寄ったり、または外食しに行ったり、どこかへ向かって歩き始めるでしょう。

やがて家に帰ってきたとしても、今度はそこからお風呂場に行ったり、トイレに向かったりするでしょう。

夜になったら布団に入るでしょうが、目覚めればまたどこかを目指して、家を出て歩き始めます。

始まりがあれば、必ず終わりがあり、そしてその終わりが始まりとなって、また次の終わりへと向かっていくわけです。

 

原因は必ず結果を生み、その結果が原因となって、また次の結果を生み出します。時間の流れが止まることもなければ、逆戻りすることもありません。物事は一時として止まることなく、常に移り変わっているのです。

私たちは、行為の始まりや終わりを認識して、時間の流れを文節的に把握しようとします。けれども実際には、時間は一瞬として止まることなく、連続的に経過し続けているのです。

 

たとえば、川の流れは一時として止まることなく海に向かっています。そしてまた海は、海流によってゆったりと移動し続け、時として激しく、時として穏やかに、いつも波打っています。

いつも変わらずそこにあるかのような山も、時とともに移ろう日光の具合によって、一瞬として同じ姿を見せることはありません。また四季の移ろいによって、その景色を変えていくものです。

巨大な岩であっても長年の風雪にさらされれば、少しずつその形を変えていくでしょう。そして、元の形に戻ることは二度とありません。

天に仰がれる星々も、刻一刻と、少しずつその配置を変えていきます。

1年前の私と今の私は違いますし、1日前の私とも、1分前の私とも違っていて、私が自分を認識する「今」の瞬間には、その私は既に過ぎ去り、変化しています。

 

高低差のある崖を物凄い勢いで流れ落ちる水が「滝」であって、それは決して固定的なものではありません。それは、ダイナミックに変化するありのままのエネルギーそのものであって、そのエネルギーが眼に見える「事象・現象」として現れたものなのです。

これこそが、サンスクリット語では「サンスカーラ(形成力)」という言葉によって示される「行のはたらき」であり、そしてまた同時に、「サンスカーラ(形成されたもの)」という言葉によって示される「行のあらわれ」でもあるのです。

 

サンスカーラとは、「形成力」という主体と「形成されたもの」という客体の二つに分かれるようなものではなく、実際にはただ一つの「サンスカーラ」であるというしかないものです。

川の流れと、そこに流れる木の葉の二つを、私たちは別々のものとして捉えるものですが、実際の木の葉と川の流れはともにあるもので、それは一つの「流れ」でしかないということです。

 

すべてのものは常に変動し続けているという現実は、どんなときにも変わらない真実です。

私たちの生きる現象世界をありのままに見るなら、諸行無常の法(ダルマ)は一切の例外が無い真実として、受け入れざるを得ないことだと思います。

 

 

photograph: Kenji Ishiguro