今章ではまず、ブッダのダルマ「仏法」の基本として説かれる、因果律と縁起の理法について解説してみるところから始めてみたいと思います。
例えば、種を蒔いて、花が咲く。花が咲いて、実が成る。というのは、原因と結果の関係性を言っているもので、こうした見方を「因果律」といいます。
種(A)→ 花(B)→ 実(C)
Aがあるから、Bがある。Bがあるから、Cがある。というように、ある事象Cが引き起こされるための原因Bを探り、さらにその原因となった事象Bが引き起こされるための原因Aを辿っていくという考え方です。
種を蒔いたから、花が咲いた。花が咲いたから、実が成った。
原因が結果を引き起こし、その結果がまた原因となって、原因と結果が一つの道筋として連鎖している、ということです。
それはまた、原因Aが無くなれば、結果Bも無くなるということでもあります。
原因Aが無いなら、その結果であるBを原因として起きる結果Cも起きません。
原因Aが無いなら、結果Bも無いし、結果Cもありません。
種を蒔かなければ、花が咲くことはなく。花が咲かなければ、実は成りません。
これが「因果律」に基づく考え方で、仏教に限らず、哲学や数学、科学においても、論理的な思考を働かせて物事を推理する際に基本となるものの見方です。
実際に、理科の教科書で植物が成長する過程がこのように書いてあるのを見た方も多いでしょう。
しかしながらここでの
種(A)→ 花(B)→ 実(C)
という因果律は、観察者の視点から認識されたある地点での状態に過ぎず、それが実際に成立する過程には様々な事象が、複合的な「条件」として関わっているのです。
実を結ばせるためには花を咲かせなければいけないし、そのためにはまず種を蒔く必要がある。というのは確かなことです。けれども少し考えてみるだけでも、種を蒔けば必ず花が咲くというわけではなく、花が咲けば必ず実が成るというわけでもないことは分かります。
種を育てるには、それを蒔くための土壌が必要だし、そこに水を撒いたり、世話をしたりする人がいなければいけません。太陽の光や、種が育つために適した温度や湿度など、さまざまな環境がすべて整っている必要もあります。
種を蒔かないことには花も実もありませんが、土や水や光や人など様々な要因がすべて揃って、ようやく花が咲き、実も成るということです。
そうして考えると、単純な一直線には現れない、数え切れないほどの様々な要因が網目のように張り巡らされて、特定の事象としての「原因と結果」が成り立っている、とも言えます。
因果の「因」を直接的な前提条件とするなら、様々にはたらく間接的な要因を「縁」といいます。
あるひとつの「因」だけではなく、さまざまな「縁」が相互に関係して、「果」として実る事象があるのです。結果を起こすための条件としての要因は、一つに限ってあるわけではなく、様々な因縁の関係性のなかに「縁りて起こる」ものなのです。
あらゆる物事は、時間的にも空間的にもつながりあって、さまざまな要因が縁りて起こる「現象」なのです。このような見方を「縁起」といいます。
photograph: Kenji Ishiguro