前回『佛教語大辞典』を頼りとして紐解いた「法(ダルマ)」についてまとめると、
人間が生きるにおいて普遍的な規範として保つべき合理的な法則。自然の道理。真理。
といったほどの意味になると思います。しかしながらまた、ここで言われる「真理」が、人間の理性や知性の働きによる「ロジック(論理・論法・議論の道筋)」のような範疇に収まるものではないことも、前回に述べた通りです。
『佛教語大辞典』の法(ダルマ)の項目には、
④善。善い行い。徳。
という語意説明も記されています。
英語でいう「truth」は、真偽の内の一方を指す「真実」という意味の他に、loyalty(忠実)trustworthiness(信頼できること)sincerity(誠意)genuineness(純粋)honesty(正直)といった意味を持つそうです。
これらの意味は論理性の正しさを表す「真実」とは一見無関係にも思える言葉です。それはむしろ人間の心性や徳性といった情性を表す言葉のように思われます。
また、ラテン語で真理の意味を表す「veritasu」もまた、sincerity(誠意)straightforwardness(率直)candour(公正)integrity(誠実)uprightness(高潔)といった意義も含む言葉であり、またギリシア語の「アレーテイア」という言葉も、frankness(率直)sincerity(誠意)と言った意義も含む、「truth」と同様の意義を持つ言葉であるようです。
中村元先生の著書『合理主義-東と西のロジック-(青土社)』では、上記の例の記述に続けて、
人間関係において偽りがない、誠実を尽くしている、といったことが「真」という言葉の原初的な意味であったと言える。
と示されています。
真という言葉の意味には、真と偽の二つに分けられたものの内一つという理性的判断の意味以上に、人の心の「まこと」という、心性的な意味合いの方が先立ってあるようです。そしてこれらの心性的な意味合いはどれも、悪の観念とは対極にある「善」の性質を表す、徳性的な言葉であるようです。
理屈ばかりで頭でっかちになっても、他者に共感を及ぼすものにはなりません。気持ちばかりが先走って情緒的になり過ぎても、やはり共感しにくいものとなります。本音と建前という二元に分かれることなく、心から頷けるものとして、理に適ったものとして、一致していること。裏表なく真に善であることが「道理」であって、心が一つになって乱れることがないのが「真理」であるということなのだと思います。
中村元先生は著書『合理主義-東と西のロジック-』の中で、こう述べられています。
仏教で説くところの縁起の理法は、永遠の真理である。
如来が世に出ても、或いは未だ世に出なくても、この理は定まったものである。
如来はただこの理法を覚ってさとりを成じ、衆生のために宣説し、開示しただけに過ぎない。
覚者或いは達者は、何ら神秘的な霊感或いは啓示を受けたのではなくて、
ただ真実の理法をさとっただけなのである。
ここでの文言に従うなら、永遠の真理である「縁起」の理法に気付き、それに目覚めて心を「善いもの」にすることが出来れば、私たちでもブッダになれるということになります。
私たちでも仏に成ることが出来るのでしょうか?
成仏できるのでしょうか?
仏教の先人方の導きをいただきながら、
仏に向かって、少しずつでも歩みを進めていきたいと思います。
photograph: Kenji Ishiguro
次章『縁起』につづく