さて、まずそもそも仏教とはどのような宗教かということを確認しておくと、読んで字の如く「仏の教え」すなわち「ブッダの教え」です。
キリスト教がイエス・キリスト、イスラーム教がムハンマドというように、仏教という宗教にもそれを開いた始祖がいるわけで、それが「ブッダ」であるということです。
前回述べましたように、仏教には多様な仏(ブッダ)があるわけですが、ここで言うブッダとは、歴史的に実在した人物「ゴータマ・ブッダ」を示すこととなります。
ゴータマ・ブッダは紀元前約500年頃の北インドに実在したとされる人物で、本名は「ゴータマ・シッダルタ」であったといわれています。
なにしろ約2500年前も昔のことですから、その人について伝えられていることが史実かどうかは定かではありませんが、シャーキヤ族という種族の王子として生まれたその人が「ブッダ」と称され、尊崇の対象として敬われていたことは、歴史的事実として確かなようです。
シャーキヤ族を漢字で音写すると「釈迦(しゃか)」になりますので、日本では親しみを込めて「お釈迦さま」と呼ばれています。
また他にも「釈尊(しゃくそん)」という呼び方もされますが、これは「釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)」を略した呼び名で、「釈迦族の聖者」という意味の尊称になります。
ゴータマ・ブッダの時代から約1000年を経て日本に伝わってきた大乗仏教の経典では、神通力で意思疎通したり瞬間移動したりする超人的な存在として神格化されて描かれている釈尊ですが、史実として見るなら、私たちと同様に生身の一人の人間です。
このように、ゴータマ・ブッダという歴史的人物を指す固有名詞として認識されることの多い「ブッダ(buddha)」という単語ですが、本来は「目覚めた者」という意味の普通名詞です。
では、何に目覚めた人なのかというと、ブッダとは、「ダルマ(dharma)」に目覚められた人なのだと言われます。
サンスクリット語のダルマとは、私たちが生きる世界の根底にはたらく「真理」や「理法」、または「道理」といった意味をあらわす言葉になります。
ブッダも元々は単なる一人の人間に過ぎなかったわけですが、このダルマに目覚めて、ある理想的な完成状態に達したことによって、自他ともに認めるブッダ(覚者)になられたということです。
私たちの世界にはたらく普遍的な真理に目覚められたその人によって語られた教えは、自然の道理に適った正しい「規律・規範」を示す教説として、ブッダのダルマ、すなわち「仏法」として人々に教示されました。
ダルマを悟ったのがブッダであると同時に、ブッダの言葉がそのままダルマとしても受け止められたのです。
ダルマなくしてブッダはなく、ブッダなくしてダルマが伝わることもありません。
ゴータマ・ブッダという覚者が存在したからこそ、私たちが生きるこの世界にも、ブッダのダルマ、すなわち「仏法」が伝播していったのです。
歴史上の問題としてみれば、仏教はゴータマ・シッダルタ(釈尊)という一人の歴史的人物によって開創されたものに違いありません。
しかしながら、ゴータマ・シッダルタが「ブッダ」となるには、人類普遍の「ダルマ」がその前提としてあるということなのです。
ダルマに目覚められた存在がブッダであるということを突き詰めて考えれば、理論的には、ゴータマ・シッダルタがダルマに目覚められる以前にもダルマはあって、それに目覚めさえすれば、ゴータマ以前にもブッダ(覚者)は存在していた可能性がある、ということになります。
そうした発想から、インド人特有の豊かな想像力の産物として、仏教においては極めて古い時代から「過去七仏(釈尊以前にこの世に現れられた7ブッダ)」という信仰が成立していたそうです。
そして、その観念が後年発達して大乗仏教にまで展開していくと、時間的には過去・現在・未来に、空間的には遍く宇宙空間の隅々にまでその範囲が広がり、無量無数の仏を想定することにまでなっていったようです。
そうして、毘盧遮那仏や大日仏、薬師仏、そして阿弥陀仏など、さまざまな大乗仏教の仏(ブッダ)が現されるようになっていきます。
時空を越えた普遍的な真理であるダルマがある限り、それに目覚めるブッダはいるはずだということです。ダルマを体得しダルマを体現するブッダが、必ず現れるということです。
ブッダとは何か、仏教とは何かを探るには、ダルマそのものについて考える必要がありそうです。
photograph: Kenji Ishiguro