この慶集寺は、約300年前に創立されたと伝えられていますが、
そのルーツは約500年前の、中世の時代にまで遡って伝えられています。
このお寺には、阿弥陀如来の絵像の掛軸が一本、代々の住職によって受け継がれていて、
それが慶集寺の「 開基仏 」、つまりはお寺の起源となるご本尊だと伝えられています。
生死の世界、人間の娑婆世界に、これまでの代々に渡って伝えられてきた、ご本尊です。
このご本尊には、ご本山からの下付証明書である「 裏書 」があって、
そこには元亀三年(1503)という年号と、本願寺第九代・実如上人の署名とともに、
中央には、「 方便法身尊像 」と書かれています。
お裏書にはかならず「 方便法身尊像 」と書いてあるのが定型になっているのですが、
阿弥陀如来の像を礼拝の対象とする私たち浄土真宗の門徒にとって、
これは大変重要な意味を示していると、私は思います。
お裏書にもある「 法身 」という言葉は、「 真理そのものの本体 」をいうわけですが、
これは本来「 色もなく形もない、真実そのもの 」のことをいいます。
仏教とは「 仏法 」すなわち「 真実の法則 」を説く教えなわけですが、
真実・真理とは、もともとに色も形もなく、言葉にもできない、
私たちの認識能力の範疇を超えるものだと、まずは認識するべきでしょう。
私たちはものごとを分別して、判断して、「 分かる 」ように考えるわけですが、
仏法とはすなわち、
人間の思慮分別では「 分からない 」ことのあることを、「 分かる 」ということです。
人間の頭で考え思いはかることを「 思議 」と言いますが、
人間の頭では考えも及ばない、思いはかることのできないことを「 不可思議 」と言います。
私たちはもともとに、「 不思議 」の中にあるのです。
思慮分別の領域を越えてある、不可思議なる「 無分別 」の境地のなかにある、
ということなのです。
なんだか、つかみどころのない話に聞こえるかもしれませんね。
色も形もない、真実そのものなんていって、そんなものあるのかないのか、
不思議だなんてそんなわけのわからないことを言っている仏教は、
ホントなのか? ウソなのか?
真実・真理というものが本当にあるのだとしたら、
それは二つに分かれることではなく、ただ( ひとつ )のこととしてあるはずです。
裏表があってはいけません。 いつでもどこでも、ただ( ひとつ )でなくてはいけません。
そうでなければ、本当に疑いなく信じるにふさわしい( 真実・真理 )だとはいえません。
ホントなのか、ウソなのかと、人間を迷わせてしまうようなものであってはいけないのです。
ホントかウソかと迷っているのは、
いつも頭をこねくり回して考えている私たち人間なだけであって、
ただひとつの( 真実・真理 )は、ただいつもそこに( ある )のです。
疑いようもなくただそこに、( ありのままにある )のです。
信じていいのか、疑うべきか?
正しいことか、間違っているのか?
善いことなのか、悪いことなのか?
そのように二つに分けては、迷ってしまう、相対性の娑婆世界を、
遥かに超えてただひとつの( 真実・真理 )が、厳然としてあります。
その境地を場所として、世界として現わすならば、「 極楽浄土 」。
苦と楽の相対性を超えたところ、極めて楽なるひとつの世界ということです。
美しいと感じるものもあれば、汚いと感じるものだってあるのが、
私たちの「 娑婆世界 」のあり方ですが、そんな美醜の判断を超えた、
ただ限りなく澄み渡って清らかな( 浄土 )があるというのです。
それをまた、人格的存在として現わすならば「 阿弥陀仏 」。
極楽浄土の教主なのだと、『 浄土三部経 』というお経には、
神話的な物語として書かれています。
阿弥陀仏のことを「 方便法身 」といい、そのお姿を「 方便法身尊像 」といいます。
浄土真宗は、決して偶像崇拝の宗教ではないということが、
その礼拝の対象となるご本尊の裏書きには「 方便法身尊像 」という言葉で、
必ず書き留めてあります。
阿弥陀さまのお姿は、本当は色も形もなければ、言葉にすることもできないけれども、
いつでもどこでも、私たちにはたらきかけられている( 願い心 )の、現われなのです。
どうか気づいてくれよという、( 願い心 )そのものなのです。
極楽浄土という場所や、阿弥陀如来という存在として、
色や形や言葉となって現れてこないと、
私たちはそのことに、なかなか気づくことが、できません。
そんな私たちに向けて、
私たちにも分かるようにして現れてくださった「 方便法身尊像 」です。
気づけないものにも分かるような色や形となって、
そのことを認識できるようなお姿になって、
こうして、現れてくださるのです。
>>> 次項(4/7)