極楽浄土の仏の名前を「 阿弥陀 」といいますが、この名前にも、もちろん意味があります。

この名前にこそ、深い意味があるのです。


阿弥陀の元々の語源は、
サンスクリット語の「 アミターバ(amitabha)」と「 アミターユス(amitayus)」
の音をとって「 アミダ 」としたものです。





ここでいう「 アミタ(amita)」とは、【 mita 】( 量られた )という語に、
それを打ち消す「 〜でない 」という否定接頭語の【 a 】を加えた言葉で、

量ることができない。すなわち「 無量 」という意味を表しています。

この「 アミターバ(amitabha)」というサンスクリット語は、
【 amita 】に【 abha 】( 光明 )という語が合成されて生まれた言葉で、
「 無量の光明をもてるもの 」という意味です。

同様に「 アミターユス(amitayus)」とは、
【 amita 】に【 ayus 】( 寿命 )が合成された言葉で、
「 無量の寿命をもてるもの 」という意味になります。


それで「 阿弥陀如来 」という言葉は、

( 無量 無限 無辺の 永遠なる光と命をもてるもの )

という意味になります。



極楽浄土の阿弥陀さまは「 永遠の光と命 」という名前を名乗っていらっしゃるわけですが、
それに対して、相対性の「 娑婆世界 」に生きることしかできない私たちの姿は、

どんなありようでしょうか。


私たちの世界には、光があれば、影もあります。

明るい気分のときもあれば、暗い気持ちにもなって、
どうしようもない気分の浮き沈みに、この身を持て余してしまいます。

明るいところから暗いところに突然閉じ込められてしまうと、
光から閉ざされて、真っ暗闇になってしまったようにも感じます。


この世は闇だと絶望してみたり。

お先真っ暗だといって不安になったり。

一寸先は闇だと言って恐怖したり。


自分自身の心が闇をつくって、その心に暗い影を落とします。




けれども、どんなに暗闇に閉じ込められたような気持ちになるときでも、
必ずそこには光があって、何かが見えてくるはずです。

必ずどこからか、光が射しているはずです。

どんなときにも、私たちのまわりには、光があるはずなのです。



暗黒の空間かのようにも思える宇宙空間は、決して真っ暗闇ではありません。

むしろそこは、光に溢れています。


宇宙空間に浮かぶスペースシャトルは、煌々として、照らされています。

宇宙空間が真っ暗だったら、誰にも見えなくなってるはずです。

宇宙空間にあるスペースシャトルは、光に包まれているんだと思います。

地球上に生きる私たちのすべても、みんな光に照らされています。 包まれています。

光から離れようとしても、光はいつも私たちのすぐそばにあって、

ここを離れることはありません。









岩瀬大町のお寺の本堂の中にいる私たちは、岩瀬大町にいながら、世界の中の日本にいます。

世界は地球上にあるわけですから、私たちは地球にいるとも言えます。

地球は宇宙の中にあるわけですから、私たちは地球の中にいながらも、
宇宙の中にあるとも言えます。

私たちは地球に生まれた「 地球人 」であると同時に、
宇宙の中にいる「 宇宙人 」なのだとも言えるでしょう。

宇宙人が地球以外のどこかにいるのかどうか、それはわかりませんが、
私たちという「 宇宙人 」が、いまここにいるのは、確かなことです。




先ほど私は、宇宙の彼方には「 未来がある 」といった、息子のお話をしました。

それではもうひとつ問いを重ねて、

「 未来の向こうには何がある? 」 と自分に問いかけてみます。

私なりに考えてみるならその答えは、

「 如来がある 」 かもしれません。



如来という言葉は、
サンスクリット語の「 タターガタ(tathagata)」という言葉が翻訳されたものですが、
仏教学者の中村元先生によると、

「( 人々を救うために )かくの如く来たりし者 」

という意味なのだそうです。


遥か宇宙の彼方、遥か未来の彼方にありながらも、
いつでもどこでも、いまここの私に向かって、やってくる者。

そのようにしてやってくる者。 それが「 如来 」です。


時間と空間を超えてありながら、この宇宙にあるすべてのものごとを、
包み込むようにして含みながら、すべてとともに、いまある者。

私たちの理解の範囲を遥かに超えてありながらも、いつもどこにも、
いまここにもやってきて、はたらきかけている者。

時間と空間に余すところなく、満ち満ちてある。

かくの如く来たりし者。 それが「 如来 」です。



時空を超えてある者というと、私たちとは別の存在としてある、
いわゆる「 宇宙人 」のようなものを想像されるかもしれませんが、
もちろんそういうことではありません。


いまここに生きる私たちの一人ひとりに、いつもはたらく( 力 )があって、
いつでもどこでも私たちと( ひとつ )になって、それは、はたらいています。

私たちの一人ひとりを、果てしない( 願いの心 )の内に、生かしてくださっているのです。

私たちは、生きていることを願われて、生かされて、今ここに生きています。




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