先日、夕食の晩酌もすすんでほろ酔いのところで、
小学生の息子に、戯れにちょっとした質問をしてみました。

「 パパたちはこの部屋の中にいるけど、この部屋の外には何があるんだろうね?」

と質問したのです。

みなさんもちょっと考えてみてください

この本堂の外には何があるんでしょうね?




息子はその質問を聞いて、ちょっと窓の外を見て「 大町でしょ 」と答えました。
私たちのいる慶集寺というお寺は、岩瀬大町という町内にあるわけですから、
部屋の外は「 大町 」であることは、正解のひとつだと思います。

そこで次に、「 じゃあ、大町の外には何があるんだろうね?」 と質問してみました。
すると息子はしばらく考えて、「 世界がある 」と答えました。

なるほど世界か、
ということで次に「 じゃあ、世界の外には何がある?」 と質問してみました。

すると息子は、パパは何を言い出すんだろう? という顔をしながら考えて、
「 地球 」と答えました。

そこでまた私が「 じゃあ、地球の外は?」と質問を重ねると彼は、

「 宇宙?」と答えました。


そこで私は、「 なるほどね、じゃあ宇宙の外は?」と、
ちょっと意地悪な質問をしてみたのです。

そうすると息子は、うむ、と考えたあと、

「 未来!」

と答えたのです。






この答えには、私もびっくりしました。 この発想にはやられました。

宇宙の外には何があるかだなんて、
物理学者でもあれば仮説のひとつも論じられるかもしれませんが、
普通その問いに答えるのは、ちょっと難しいですよね。

でも息子が言った「 未来 」という答えは、ある意味、正しいと思うんです。




未来という言葉は、「 未だ来らず 」と読めます。

確かに、未来にはまだ誰も行ったことがないんだから、
今はまだ、宇宙の彼方にあるのかもしれません。

宇宙の彼方にまで行ける時代が来るのかどうかはわかりませんが、
それが遥か未来のことであることは、間違いないでしょう。

今は、まだです。

今を生きるすべての人にとって、必ず「 未来 」はあるはずですが、
そこへ行ったことのある人は、今のところは、一人としていません。

一分、一秒先の未来であっても、今は、まだです。

未だ来らず、です。



マルティン・ハイデガーというドイツの哲学者は、『 存在と時間 』という著書の中で、
私たちが過去としている概念を「 既在 」と、
未来としている概念を「 到来 」と呼んで解釈したそうです。

過去 → 現在 → 未来 という時間は、私たちの存在とは関係なく、
ただその流れが独立した軸としてあるかのように、私たちは考えていないでしょうか。

けれどもハイデガーは、
これまでにあった自分を引き受けることを「 既在(=過去)」といい、
これからの自分にあるべき可能性のことを「 到来(=未来)」といい、
既在と到来とが出会う、今ここにいる私という存在の現場を「 現在 」と捉えました。

「 過去 」の経験の蓄積の上に存在する自分は、
「 未来 」に起こりうる可能性の内のいまをここの現実として、
「 現在 」に経験しているということ。

未来というのは、現在の地点までやってこようとしている、
未だ来ていない、自分自身の可能性なのだというのです。



人間として「 生まれた 」という過去を引き受けて生きるからには、
人間として「 死ぬ 」という未来の可能性もまた、
やがて来ることとして、覚悟して生きていなければいけないのでしょう。

過去に生まれ、現在に生きている私には、かならず未来があって、
その先には、かならず「 死 」があります。

やがて私は死ぬでしょう。 それはみんな同じです。 生まれたからには死ぬんです。

人それぞれの生き方があるように、死に方も人それぞれですが、
こうやって生まれてきたからには、みんな必ず、死ぬんです。



生まれてから死ぬまでの間を仏教では、「 生死(しょうじ)」と言います。

そして、私たちがあるこの生死の世界を、「 娑婆(しゃば)」と言います。


この娑婆は「 相対性の世界 」です。
あるひとつの観念には、それに対するもうひとつの観念が、必ず現れます。

地球上のここという地点を中心として、東の世界があるなら、それに対して、西の世界。
北に対しては南。 上に対しては下。 右に対しては、左があるわけです。

方向という観念や感覚がある限り、ある方向に対しては、必ず反対の方向が現れます。



また、この世界にあって私たちは、自分自身の自己中心的な価値判断で、
大きいとか、小さいとか、 高いとか、低いとか、 上だとか、下だとか、
勝ったとか、負けたとか、 好きだとか、嫌いだとか、 得したとか、損したとか、
他と比べては、それにとてもこだわります。

一人ひとりの価値基準や判断基準は人それぞれに違っているんだから、
誰かの基準のどれかひとつが、みんなにとっての絶対なわけではありません。



アリに比べれば、ネコは大きいかもしれませんが、
ヒトに比べれば、ネコは小さいです。

ネコに比べれば、ヒトは大きいかもしれませんが、
ゾウに比べれば、ヒトは小さいです。

どこを基準に、はかる( 測る・計る・量る )かで変わってしまうのです。

私たちの思いはかっていることは、絶対的ではないということです。

相対的なものでしかないのです。 自分で比べて、自分で決めてるだけなのです。



いまここにある「 現在 」を生きる私の立ち位置から、
振り返るならば、これまでの「 過去 」があり、
その反対に向き直すと、これからの「 未来 」があります。

これまでの過去は、もはや受け入れるしかない事実の積み重ねですが、
いまここからの「 未来 」は、未だ来らず、無限の可能性が広がっています。

成功する可能性もあれば、失敗する可能性も、
良くなる可能性もあれば、悪くなる可能性もあるわけですから、
どうしようもなく不安にもなってしまいます。

けれども、今の自分の意思こそが大切なのです。 未来は今の自分次第です。
未来は今、切り開かれていくものなのです。

これまでに積み重ねられてきた過去であっても、今の自分の思い方次第で、
その記憶のあり方は、どのようにでも変わっていきます。

良かったこととも、悪かったこととも、今の自分の捉え方次第です。



他人と自分を比べませんって人はいませんよね。

まったく勝ち負けを気にしないなんていう人は、いません。

私は得しなくてもいいんですっていう人はいたとしても、
損したっていいんですなんていう人は、なかなかいません。

好き嫌いがまったくないっていう人は、いません。

二項対立の中でああだこうだと右往左往して心を迷わしている、私たちです。

自分の自己中心性に、自分自身が迷わされているのです。

右とか左とか、善とか悪とか、本当か嘘かとか、美しいとか醜いとか、
二つに分けて考えようとする相対的な見方を習性としているのが、
私たちの意識であり、この世界のありようです。



人それぞれに自己というものがあって、人それぞれに自己中心的なのだから、
それぞれの価値判断の基準はひとりとして同じではなく、人それぞれに違っています。

私たちの生きている娑婆は、「 みんな違う 」という世界ですから、

感違いとか、思い違いとか、見当違いなんかがざらにあって、
かけ違ったり、くい違ったり、すれ違ったりして生じるさまざまな問題が、

いやになるほど、たくさんあります。


さまざまな違いのなかで、人と人との間に生きなければいけない、私たちです。

みんな違ってみんないいと、思わなければやっていけないような、この世界です。

この「 娑婆 」に生きる、私たちなのです。



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