十二光の最初が[無量光]です。先に「帰命無量寿如来」の語句説明をした際に、無量寿とは「量ることの出来ないいのち」という意味であることをお伝えしました。
はかるという言葉は、量るとも、測るとも、計るとも表記されますが、どれも何か大きなところから限定的に「分ける」ことをいいます。山盛りの中から一杯分をすくってその重さを量ったり、点と点の間の長さを物差しで測ったりして、大きな全体から部分に分けて「はかる」のです。
それに対して「無量」とは、量れ無い、つまりは限定して分けられることが無いということです。それは「無限」ということであり、無量とはすなわち「永遠」といった意味にもなります。
無量寿如来から放たれる光は、照度や光度、速さや波長といった尺度で「はかる」ことのできる範疇のものではなく、はかることのできない光。すなわち[無量光]であるというのです。
無量寿という言葉はサンスクリット語でいうなら「アミターユス(amita-yus)」となります。「-yus」は寿(いのち)を示す言葉です。それに対して無量光はサンスクリット語で「アミターバ(amita-bha)」という言葉になります。語尾の「-bha」は、光(ひかり)を示しています。
つまり、南無阿弥陀仏の「阿弥陀」は、無量の寿(いのち)であると同時に、無量の光(ひかり)でもあって、ひかりといのちの二つの性質を「アミダ」の一言に内包しているのです。その如来の光と寿(ひかりといのち)は、永遠、無限というわけです。
永遠であり無限であり、無量であるということは、ここからここまでという限定が無い状態であって、始点も無ければ終点も無い、果てが無いということです。果てしなく、際限ないということです。それはつまり「無辺」ということです。
中心点がなければ、円周は描けません。円周の内側と外側を分けなければ、円の半径や円周の長さや面積を計ることはできません。縁(ふち)や際(きわ)や境(さかい)のような分限がなければ、それを「はかる」ことはできないということです。
[無辺光]は[無量光]であって、[無量光]は[無辺光]です。その光をイメージするなら、空間的にも時間的にも果てしない、あまねく満ち満ちている光、のような感じでしょうか。
地球上にあまねく満ち満ちてあるものといえば、空気が思い浮かべられます。私たちは空気の中にいて、呼吸していないと生きていられません。あまりにも当たり前に空気があるので、それがあることを普段は意識していませんが、いつものように息ができなくなってしまったら、死ぬほどその有り難さに気づくことでしょう。
光も空気と同様に、私たちの周りに満ちていて、当たり前のようにあるものと思われがちです。けれども夜間に停電になっただけでもパニックになるのですから、世界から光が無くなってしまうようなことがあったら、それは大変です。すべてが暗闇の中で見えなくなってしまったら、まさに暗黒の世界です。あって当然のように思っている「光」は、本当は私たちにとって無くては成らないものなのです。
命も同様です。私たち一人一人は「命」があって生きているわけで、命が無ければ、死んでいます。毎日いただく食料は命そのものです。肉も野菜も、米も水も、すべては命であって、命をいただいて、自分の命が今日もあります。さまざまな命のつながりのなかに、生かされているということだと思います。だから私たちは食事の前に「いただきます」と、合掌するのだと思います。
ひかりといのちは、この世界の前提としてあることであって、果てしなく広がり満ち満ちてある「ひかりといのち」のなかに、照らされて、生かされている私たちなのです。