中道という基本姿勢に基づく八聖道の実践によって、煩悩が滅せられ、智慧が体得され、ありのままの「真如」と一つに成ると、仏教には説かれています。

真実真如と同体となって、その境地へとかくの如く去っていく存在を「如去(にょこ)」といいます。如去とは仏の別称でもあり、仏と成って、成仏した存在であるということです。

真如の境地に達して智慧(出世間智)を体得したゴータマ・ブッダは、再び私たちの世間に現れて、その真実性を体現して示されます。

智慧を得ることによって、真実のありのままに気付き、目覚められたブッダは、真実のあるがまま(真如)を体現する存在として私たちの世界に還って来られたがゆえに「如来(にょらい)」とも称されます。

 

言葉によって言い表すことのできない「真なるもの」は「如く」という言葉で喩えて表現するしかないものなのでしょうか。真実を言葉で表現しようとすれば、究極的には「真の如く」というしかないものなのでしょうか。

しかしながら、それが如何なるものかを理解するにはあまりにも限定的な能力した持ち得ない私たちのために、真如へと去ると同時に真如より来り、自然の道理に適うようにしてはたらく力があるというのです。

それが「如来」であり、それが「ブッダ」であるといわれます。

如去とは、人間の言語的世界を否定して、非言語の領域へと超越するということですが、如来とは、人間の言語的世界を肯定して、非言語の領域より顕現する「はたらき」をいうようです。

如去も如来もブッダの別名であり、それが体現して示すところはただ一つの「真如(あるがまま)」です。

ブッダとは、「真実」とは如何なるものかを私たちに顕して示す、体現者であるというのです。

 

真という言葉には、真と偽の二つに分けられたものの内一つという理性的認識の意味以上に、人の心の「まこと(誠・信・真心)」というような心性的な意味があるといわれます。人間関係において偽りがない、誠実を尽くしている、裏表がないといったことが「真」という言葉の原初的な意味なのです。

真如は「法性」とも言い換えられるものですが、『佛教語大辞典』の法(ダルマ)の項目には、「善。徳。善い行い。」という語意説明がなされています。法性として示されるブッダのダルマの本質とは、善性とも徳性とも言い換えられるものです。これは「真」の意味する心性に、ぴったりと重なるものに思われます。

智慧を体得するものは、あるがままの真如と一つになって、善なる徳を体現する心そのものとなって、私たちに向けて「慈悲心」を顕現されます。

それが真如より来生するもの、すなわち「如来」であるというのです。

煩悩にまみれて生きる私たちの人間世界とは、遠くかけ離れた境地にありながら、それでもいつも人間と共にあるのが如来です。社会の只中にあってそこに共存し、悟りのはたらきを明らかに示して見せられるのが如来なのです。

 

自己中心性から離れ、煩悩を払い去り、智慧を体得されたゴータマ・ブッダは、裏表なく、余すところなく、分け隔てなく、すべてのものを一心に願う「大慈悲心」をあるがままに体現されたといわれます。

頭でっかちなブッダとか、嘘つきなブッダとか、格好ばっかりのブッダとか、意地悪なブッダとか、偉そうで尊大なブッダとか、悟りすましたブッダとかはいないはずです。

真実真理の「智慧」を体得すると同時に、真心の「慈悲」を体現してこそ、誰からも「ブッダ」として認められる存在になられたのでしょう。自分から殊更にそれを誇示しなくても、誰もが自然と「ブッダ」であることを認められたのでしょう。

 

ゴータマ・シッダルタが、覚者ゴータマ・ブッダとして認められるに至ったのは、その人はけして怒らず、求めず、動じず、人間存在の器が比類なく大きかったからなのだと、私は想像します。

人類普遍の真理を体得したその人は、真実をありのままに見抜かれて、人々に向けてその真心を体現し、明らかに見せられたのだと思います。

通常の人間の知性と情緒を遥かに越えた善なる徳性「智慧と慈悲」を円満に兼ね備えた存在として、私たち人間の世界に顕現されたのが「ブッダ(覚者)」であると、私は想像しています。

 

 

photograph: Kenji Ishiguro