ゴータマ・ブッダは、縁起の道理に則った生き方を「中道」として説かれて、その具体的な内容を「八聖道」に示されました。それはブッダ自身の悟りの道程であると同時に、仏弟子たちと共に勤められた「仏道」の内容でもあると思われます。
ブッダは、心を一つの対象に集中して精神統一することを「定学」として、
次の三つに示されています。
・正精進(人と比べることなく、自分自身を勤めること)
・正念(雑念に惑うことなく、心を制御すること)
・正定(中道の姿勢で、精神を統一すること)
そしてまた、ものごとをありのままに観察することを「慧学」として、
次の二つに示されています。
・正見(中道の姿勢から、縁起の道理を観察すること)
・正思惟(縁起の道理に則って、物事を深く考えること)
そして更には、縁起の道理に則って生きるために自分を律することを「戒学」として、
次の三つに示されています。
・正語(中道の姿勢で話すこと)
・正業(中道の姿勢で行うこと)
・正命(中道の姿勢で日々を生活すること)
ゴータマ・ブッダが仏弟子たちに示されたこれらの戒学・定学・慧学は、仏道を修めるにあたって必ず意識するべき基本的な修行部類として「三学」と称されます。
これら三学は、一つずつ修得を完了しながら先に進んでいくようなものではなく、
→戒→定→慧→戒→定→慧→戒→定→慧→戒→定→慧→…
というように、繰り返し重ねて勤められ、より高みを目指して続けられるもののようです。
同様に八聖道の修行実践も、
→①正見→②正思惟→③正語→④正業→⑤正命→⑥正精進→⑦正念→⑧正定→①正見→…
というように、①正見(あるがままに見る)を基本として、中道に則った生き方を日々勤めることにより、やがて ⑧正定(心を一つする)の境地に達しながらも、そこで終わることなく再び ①正見の純度を更に高めて、中道の修行を積み重ねられることが勧められているのだと思われます。
因果律から導かれる事実として、スタートがある限り、ゴールは必ずあるものです。しかしながらそれでおしまいなわけではなく、ゴール地点は必ず新たなスタート地点となり、それを繰り返し続けるものでもあります。
閉じられた円環は堂々巡りを繰り返すだけですが、ここでの繰り返しはらせん状の軌道を描く円環なので、永遠の高みに上昇するような無限のエネルギーを発するものとして、それをイメージすることができるかもしれません。
ゴータマ・ブッダは、このような無限のエネルギーをその身に保つ存在として、仏弟子たちを涅槃寂静の方向へと導かれたのでしょう。そしてまた仏弟子たちは、そのエネルギーに導かれるようにして八聖道を勤め続け、そしてまたその中道という生き方を、同じ意志を持つ人々に伝え続けていかれたのでしょう。
ブッダとは、絶対的な固有の存在というよりも、「永遠循環の生命エネルギー運動体」として今ここにも働く力であり、それこそが、涅槃とも成道とも解脱とも表現される、悟りの性質であり本体であり境界であると、私は受け止めています。
photograph: Kenji Ishiguro