自分が起こした行いの結果は自分の身に受けなければいけないということを「自業自得」と言います。また、よい行いをすればよい報いがあり悪い行いをすれば悪い報いがあるということを「因果応報」と言います。

科学の公理でもある「因果律」は、原因があって結果があるという関係性をいうものであって、過去の自分の行いを原因として、現在の自分が結果としてあるということは、紛れもない事実です。

しかしながら、自業自得や因果応報を因果律だけで納得しようとしても、そこには無理があります。それらの理解には「縁起の理法」を踏まえて考える必要があるようです。

 

私たちの存在は、自分一人で個別に孤立して完結しているものではなく、様々な関わり合いのうちにあって、ご縁のうちに現象してあるものです。何とどう出会うか。その出会いをどう捉えるかで、未来はどのようにでも変わるはずなのです。

いまここにある自分の行いが未来の自分を形づくり、それは他者にまで影響すれば、未来の世界をも創造することになります。未来は無限の可能性に開かれています。

ご縁によって生じた過去の自分も、ご縁によってある現在の自分も、未来の自分の原因にもなれば、何かのご縁にもなるものです。

人と人とのご縁というものは、善いも悪いも縁は縁であって、それを善いこととするか悪いこととするかは、自分自身の思い方次第、関わり方次第なのです。

 

諸行無常が人生の真実であるのなら、自分自身も必ず変化するはずです。自分の思い通りになることはなくても、何かには変わっていくはずです。

今の自分の意志次第で、未来はどうにでも変わっていくものなのだから、固定的に決めつける必要はなく、絶対だなんて思い込む必要はありません。

 

さまざまなご縁によって成り立っている私は、偶々の出会いの連なりによって生起する、かけがえないただ一人の私です。ありがたくおかげさまで、今生きる私です。

いまここにある一期一会の出遇いを受け入れて、いまここに心を定めることが、かけがえのない自分自身を受け入れて生きることなのでしょう。

かけがえないご縁で出会えた一人ひとりを、受け入れて生きることなのでしょう。

 

つく縁もあれば、はなれる縁もあります。

いつも自然体でいられる関係でいられたら。

 

一歩そばに歩み寄ることも、

ちょっと距離をおいて付き合うことも、

時と場合に応じて大切なことです。

 

よりよく関わり合うことで、お互いによりよく変わっていくことができたらと、願うばかりです。

 

 

photograph: Kenji Ishiguro