ミステリーやオカルト、UFOや幽霊、怪奇現象のようなものが、特段「不思議」なことではないように思います。本当は分からないものに対して、自分の認識しやすいイメージであたかも分かっているかのような受け取り方をするのは、自らの「思議」の範疇によるものであって、極めて恣意的(論理的な筋道の通っていない自分本位な物事の進め方)だからです。
私たちの生きるこの世界は、不思議なことだらけです。この世界で自分の「思議」の及ぶのは、ほんの小さな範囲のことでしかありません。私たちは不思議のなかに生きていると言ってよいほどだと思います。そう見るほうが「ありのまま」であるように思います。
英語でいうwonderは「不思議」という意味ですが、その形容詞のwonderfulは「素晴らしい」「驚くべき」と訳されます。形容詞の語尾につく-fulという接尾辞は、「〜がいっぱい」とか「〜に満ちている」という意味を施すものですが、wonderに-fulがついてwonderfulというのは、とても意味深いことに感じられます。
この世界は不思議に満ちていて、それだからこそ、素晴らしい。不思議というのは、怖いことや恐ろしいことではありません。不思議は感動に満ち溢れているのだと、感じていいと思います。
圧倒的な驚きに満ち溢れているのがこの不可思議なる世界なのです。そう感じることの方が、心が晴れやかになる感じがします。
名号を口に称えて仏を念じることを「称名念仏(しょうみょうねんぶつ)」と言います。「称」の字には「となえる」という意味と同時に「たたえる」という意味もあります。
「アミターバ(阿弥陀のひかり)」は[難思光]であって[不可思議光]であって、それを通常の論理的な言語で説明することはできません。その光の素晴らしさは、私たちが通常用いるような言葉では、言い尽くせないことなのです。ゆえにそれは[無称光]と言い表されます。
どれだけその名を称(とな)えたとしても、それを称(たた)え尽くすことはできません。
その光の、その名号のはたらきは、
人間の言葉では称(とな)え尽くせず、称(たた)え尽くせないものなのです。