天台宗や真言宗、禅宗、日蓮宗、浄土宗、そして浄土真宗など、日本の仏教にはさまざまな宗派があり、それぞれの宗派で、礼拝の対象となるご本尊が定められています。
すべての宗派に共通する礼拝の対象は釈迦牟尼仏、いわゆる「お釈迦さま」です。しかしながら他にも、阿弥陀仏、大日仏、薬師仏など、さまざまな仏さまがいらっしゃいます。仏教は一つであっても、様々な捉え方があって、仏さまと言っても多様にあるということです。
私は浄土真宗本願寺派の僧侶なので、自坊には「阿弥陀さま」の木像が安置してあります。礼拝の対象は「阿弥陀仏」ただ一つであるということが、浄土真宗の特徴ですが、かといって、他の仏さまを認めないというわけではありません。
『仏説阿弥陀経』という聖典には、私たちの身の回り、東西南北上下のあらゆる方向に、ガンジス河の砂粒の数程に仏さまがいらっしゃると説かれています。ガンジス河の砂の粒の数(恒河沙数)ということは、数え切れないほどに無数という意味です。浄土真宗は阿弥陀仏ただ一つをお参りするといっても、いわゆる一神教的なわけではなくて、多くの仏さまの中から一つに選び抜いて、阿弥陀さまをお参りするということなのです。
仏さまは、阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来、大日如来というように、「如来」という呼ばれ方もされています。ここで仏教学者の中村元博士が編まれた『仏教語大辞典(東京書籍)』を参考にして、この「如来」という言葉の由来を探ってみましょう。
その語源は古代インド語の「タターガタ(tathagata)」が漢訳されたものであり、本来は「tatha(かくのごとく)」+「gata(行ける)」すなわち「如去」と訳されるような意味の言葉になります。お釈迦さまが生存された頃の原始仏教にまで遡るなら、本来的には、さとりの完成に向かいそこに到達したという意味で、「如去」という言葉として捉えられたのが、仏の存在だったわけです。
しかしながら、インドから中国に伝播して展開した大乗仏教の捉え方では、「タターガタ(tathagata)」という古代インド語が、「tatha(かくのごとく)」+「agata(来れる)」と解釈し直されて「如来」という漢訳語が生まれました。ここでは、人々を教え導き救済する、仏の有する活動的な側面が強調して表されているわけです。ここから「真如より来生するもの」という意味が読み取られるようにもなったということです。
では次に、この「真如」とは何かを探ってみると、先の『仏教語大辞典』にはまず最初に、①かくあること。ありのままのすがた。あるがままなること。という説明がなされています。
「あるがまま」とか「ありのまま」という言葉は、なんとなく耳にすることがあっても、それが具体的にどういう意味なのかは、正直よく分からない言葉です。
他の説明を見てみると、④普遍的真理。心のあるがままの真実。あらゆる存在の真のすがた。万有の根源。とも記されています。「真理」「真実」「真のすがた」というのですから、嘘ではない、偽ではない、本当のこと、という意味でしょうか。
いずれにしても一般生活者の立場からすると、あまりにもつかみどころがなく、どうにも壮大すぎて、通常の感覚では理解のしようがありません。
どこかにヒントはないものかと更に探ってみると、②法性と同義。法がかくのごとく成立していること。という説明がありました。ということは「法性」とは何かが分かれば「真如」も分かるわけです。そこで「法性」の項を『仏教語大辞典』で引いてみると、いくつか挙げられる解説のなかに、
縁起の理法の定まっていること
という意味を見つけました。
仏教は「仏法(ぶっぽう)」とも称されます。
そしてまた仏のことを「法身(ほっしん)」とも称します。
ここに示される「法」そしてまた「縁起の理法」というキーワードを探ることから、
真如より来生するもの「如来」すなわち仏の教え「仏教」に迫る、糸口がありそうです。
自分の考えの及ぶところまで、
自分の腑に落ちるところまで、
自分なりに考えてみたいと思います。
photograph: Kenji Ishiguro