私が慶集寺に入って僧侶としての生活を始めた29歳のときからおおよそ四半世紀が過ぎ、これまでずっと一緒にお参りしてきたご縁の方々とのお別れが、ずいぶん多くなりました。

毎月ご自宅に伺って、仏壇の阿弥陀さまに向かって共にお参りをし、いろんなお話をさせていただいてきた方々との、最期のお別れです。

若かった頃は、人が歳をとって亡くなるのは仕方がないことだと割り切って考えることができたような気がします。けれども、いろんな思い出を共有してきた、深いご縁を感じるような関係にまでなると、ご家族同様にとは言えませんが、とても辛く悲しく寂しい気持ちにならざるを得ません。

導師としての役割を思うと、冷静に粛々とご葬儀をお勤めしなければいけないのはわかっているのですが、胸が詰まってお経が読めなくなるようなときもあります。

ご縁の方々とのお付き合いを重ねて、やがてその方々のご葬儀をお勤めするということは、このような経験を重ねていくことなのだと、自覚しなければいけなくなりました。

 

出遇いがあれば、必ず別れも訪れるのが人生です。親しい人との死別は、誰もがどうしようもなく経験せざるを得ないことです。

どれだけ悲しみに暮れていても、ご遺体をそのままにしておくわけにはいきません。旧来からの慣習に従ってお通夜・ご葬儀をお勤めし、火葬という流れになるのが世の習いです。

生前中はひとそれぞれに意思をもって、個々人のこだわりをもって生きてこられたはずですが、お葬式は大体にして世間的な流れに沿って進行し、荼毘に付されてご遺骨になられます。

 

ご遺族にとっては、まだ生前中のお姿が鮮明な記憶として残されているなかで、亡くなられたことの現実を、なかなか受け入れることができないのは、当然だと思います。

いつものように帰宅するんじゃないか、連絡がくるんじゃないか、まだどこかにいるんじゃないか。そういう思いを持たれることは、自然な心情だと思います。

天国なのか何処なのか、もう亡くなられた方々が、いまはどうされているのだろうかと、想像してしまうこともあると思います。

色々なひとが、どれだけまことしやかに自分の想像を語られたとしても、本当のところは誰にも分かりません。どれだけ高名な科学者や哲学者や宗教者が自説を述べられたとしても、全ての人を納得させられることは、無いように思います。

ご葬儀やご法事の際に、もっともそうに僧侶が語る法話にしても、なかなか受け入れられることばかりではないことは、承知しています。それでも私は僧侶として、自分自身が確かに信じていることを、ご遺族やご縁の方々にお伝えしなければいけないと思っています。

 

古来より日本では、亡くなられた人は「ほとけになる」と言い習わされてきました。

仏に成ると書いて、成仏(じょうぶつ)です。

 

肉体をもって自分自身を生きている間は、

自分本位・自己中心の「我執」にしがみついて生きざるを得ない私たちですが、

我をほどいて、仏と成って、

ほどいて、ほとけて、ほとけとなって、成仏されるというのです。

 

自分自身が信じることを、ご縁の方々に伝えていくしかありません。導師の役割を務める者として、亡くなられた方は必ず「成仏」されていると、私はいつもお伝えしています。

仏さまの存在や亡くなられた方々の成仏を、信じるも信じないも、ひとそれぞれの自由だと思います。けれども、私たち一人ひとりが、願われて生かされているということだけは、信じた方がいいと思うのです。

 

亡くなられた方々は、自らの肉体や存在の執われから自由になって、解き放たれて、いまはもう私たち一人ひとりのことを、一心に願ってくださっていると、信じるべきです。

自分自身のこだわりを脱ぎ捨てて、今はもう願いそのものとなって、私たちを見守ってくれていると、心から信じるべきです。

 

 

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