「神だのみ 仏だのみ」や「神も仏もありゃしない」などという言い方があります。
神棚も仏壇も神社もお寺も、旧来より引き継がれてきた地域・親族の慣習や、ならわし・しきたりとして、これまで伝えられてきたからでしょうか。一般的な日本人の宗教観として、神さまも仏さまもいっしょくたにして語る部分があるようです。
深く考えることもなく、当たり前のようになんとなくある「神さま」そして「仏さま」。けれども、宗教の主として示される神や仏とは、そもそも一体どのようなものなのでしょうか?
根本のところから、考えてみたいと思います。
まず、そもそも「神さま」とは如何なるものかと考えてみると、世界にはさまざまな「神」があるということから始めることになるでしょう。
キリスト教の「ゴッド」も神なら、イスラム教の「アッラー」も神だし、ユダヤ教の「ヤハウェ」も神です。これらの宗教はどれも、自らの信じる神が絶対唯一のものと考える「一神教」といわれる在り方です。
けれども、ゴッドもアッラーもヤハウェも、実はどれも呼び方が異なるだけで、本体としては同じ「一つの神」なのだそうです。一つの対象を仰いでいたとしても、それぞれの文化圏によって、その呼び名も違えば、捉え方や拝み方も異なるということです。
世界を見渡すと、一神教の神さまだけではなくて、他にもたくさんの神さまがいらっしゃいます。インドのヒンズー教には個性豊かなキャラクターの様々な神さまがいらっしゃいますし、古代ギリシャの神話には喜怒哀楽の愛憎劇を繰り広げる人間味のある神さまが登場します。
上記のような宗教のあり方は、複数の神々を同時に崇拝することから「多神教」と総称されます。
日本の神道も「多神教」の一つに数えられるもので、この島国には八百万の神さまがいると言われます。日本の神さまで有名どころとしては、イザナギ・イザナミの夫婦神や、天照大神(あまてらすおおみかみ)・須佐之男命(すさのおのみこと)などがいらっしゃいます。そして更には、日本国内のあらゆるところに様々な神社が遍在していて、それぞれ固有の「氏神」が祀られています。
それだけではなく、古来「一木一草に至るまで神宿る」と言われるように、木や石などのモノ、山や海などの場所、また風や雷のような自然現象にも、日本人は神の存在を感じてきたようです。
長い年月を経て使われてきた道具に聖霊が宿って現れる「付喪神(つくもがみ)」のような神までいます。名付けられて認識されるあらゆる存在のなかに、霊や魂や神を見出そうとする感覚が培われてきたのでしょうか。現代においても「野球の神様」とか「漫画の神様」とかいうような表現があったり、更には「トイレの神様」まで。
こうなると、あらゆるカテゴリーやジャンルには、その象徴としての神さまがいるような気もしてきました。
世界には様々な宗教があって、多様な神さまが無数にいるわけですが、ウィキペディアを見てみると『神は、宗教信仰の対象として尊崇・畏怖されるもの』と取りまとめられています。確かにそうした定義であれば、神を一括りにすることはできるかもしれません。
それではなぜ仏教では、他の宗教とは殊更に区別して、その対象を神さまではなく「仏さま」と言うのでしょうか?
刑事ドラマなどの台詞で、亡くなられた方のご遺体を「ホトケ」と言うことがあります。
辞書をひいても「仏」の項目には『仏教の信仰の対象・悟った者・仏陀・仏像』という説明とともに、『故人・死者』という意味が記されています。確かに私たちは、亡くなられた方に対して、自然と「成仏していてほしい」と願っているような気がします。
成仏とはすなわち「仏に成る」ということですが、亡くなられた方が「神に成る」という言い方は、あまり一般的ではありません。アスリートの活躍に「神ってる」などといったりすることがあったとしても、それはあくまでも、抜きん出た能力を持っている人への賞賛として用いる表現です。
菅原道真の天満宮や、豊臣秀吉の豊国神社、徳川家康の東照宮など、歴史上に実在した人物を祀る神社もありますが、それは傑出した能力者や有名人だからこそのことであって、ごく普通の一般人が「神に成る」というのは、聞くことが無いような気がします。
しかしながら、
私たちのようなごく普通の生活者であっても、
亡くなられた方は成仏しているはずだとか、
成仏だったらできるんじゃないかなとか、
そう思うことはあるのではないでしょうか。
では、そもそも「ほとけ」とは?
そもそも「ブッダ」とは?
そもそも「仏教」とは、一体何なのでしょうか?
そもそもに立ち戻って、考えてみたいと思います。
photograph: Kenji Ishiguro