結局1年と9ヶ月ほどの時間がかかってしまいましたが、奥さんのご協力をいただきながら、一応ひととおりエンディングノートを書いてみました。
自分のお葬式やお墓についてあれこれ考えることは、自分がいないところで起きることの想像を膨らませて自分の希望するところを勝手に考えているだけだったりして、それはそれで案外ドラマチックだったり、ロマンチックだったりして。無責任な夢を見るのは、そんなに悪くないものです。
けれどももっと現実的な、介護とか医療とか、事務的なこととか金銭的なこととか、そんな世間のいろいろに関することとなると、やっぱり煩わしさの方が先に立って、気分も重くなります。
本当に開き直ることができれば、自分が死ぬことそれ自体は、大した不安や心配ではないのかもしれません。それよりもむしろ、どのようにこれから死ぬまで生きていくのかを考えることの方が不安だし、後に遺す人たちのことを思うと、そちらの方が心配に感じてしまいます。
日々高齢化の進む私の住む町では、おばあちゃんの一人暮らしが多くいらっしゃいます。統計的にみても女性の方が男性よりも5年ほど長生きされることがわかっているのですから、それは仕方がないことです。どんなに長い月日、人生を共にしてきたパートナーであったとしても、二人一緒に亡くなれるわけではないのですから。そうなることも仕方がないと思います。
現代では、生涯を未婚で通される方も少なくなければ、離婚される方だっています。子供がいる方もあれば、子供のいない方もいます。家族のあり方は時代に応じて変わっていくもので、それらはそれぞれにさまざまで、一様ではありません。
みんな知っている家族の風景も「今は無き ありし日の一コマ」なのだと思います。
基本的には、人はみな一人、です。誰とも替わりようのない、かけがえのない自分自身を、私一人が受け止めて、生きていくしかないのだと思います。
けれどもまた現実として、人はみな一人では生きていけなくて、いつも誰かと関係しながら、生きていくものです。
昭和の時代には「死して屍(しかばね)拾うものなし」なんて決まり文句の時代劇がありましたが、現代においては、誰かに自分の遺骨を拾ってもらわなければいけません。自分が亡くなった後のことは、誰かにお願いしておかなければいけません。
後のことは任せておけばいい、なんて考えられていたのは「家制度」を前提とした一昔前の時代の話です。長男がいれば家のお墓を継いでもらえるし、家の相続についても任せておけばよいという時代では、いまはもうないのだと思います。
財産であったり、不動産であったり、大事にしているコレクションだったり。社会的にみて自分の所有物とされるものを整理してそれを書き出しておくことくらいは、後を任される人のことを思うと、まずはしておくべきかもしれません。
自分の死後、それらのことを誰に任せるか、どう任せるかを考えて、希望をまとめておくことも大切でしょう。自分にとってはものすごく価値あるものであったとしても、それを任された方からするとただの負担でしかないということも大いにあり得ますので、やっぱり双方の同意は必要なのだと思います。
複数の人に対してそれぞれにお願いをすることになりますので、やっぱり不公平があったら、面白くないことも起きるはずです。自分が大切に思う人たちに、自分の死後も仲良くしていてほしいと思うのであれば、自分の思いをみんなに共有しておいてもらう必要も、あると思います。
なんでも厳密に決めておかなければいけないとは思いませんが、突然なことがあっても大丈夫なように、できれば日頃から、なるべく気軽に、いろいろと話し合っておくことが大切なように思います。
「たのむ」という言葉は、「お願いする・依頼する」という意味で多く用いられていますが、古語に立ち返るなら「信頼する・任せる」という意味になるそうです。
「依頼する」というのと「信頼する」というのでは、大きな違いがあるような気がします。
人に迷惑かけるのはなるべくだったらしたくないことだけれども、人に迷惑かけないで生きていくことは、お互いにできないことだと思うから、
一人の人間として尊重しあって、信頼できる関係を育みながら、安心してお互いに任せあえたらいいなと、思っています。
誰が先か 誰が後かなんて
誰にもわからないけれども
今一番近くにいる人と
今こころを親しく感じる人と
いつも一期一会と思いながら
今日一日を共にできれば
God Only Knows「神のみぞ知る」
なんて言ったりするけど
ほんとにそんな「神さま」いるのかな?
私の信じる「仏さま」だったら
何て言われるだろう?
わたし次第
あなた次第
いま次第
かもしれない。
イマハタダ
アミダヲタノム
南 無 阿 弥 陀 仏