今回の「慶集寺通信」の表紙は、
本年度に公表された日本の人口ピラミッドを記載してみました。

現代の日本に生きる私たちは、このグラフの中の一人として、
今この国の、この時代に生きています。

1945年の敗戦以降 ①『戦前戦中期世代(70代以上)』が築き上げられた日本の社会を、その子供たちである ②『高度経済成長期世代(60代 -40代)』が引き継いで営んできましたが、民主主義教育によって形成された価値観のもと、近代化された生活様式に暮らすようになったこの世代では、前世代が社会の基盤としていた地域社会や家制度のあり方は変容し、地域の過疎化、核家族化といった現象が、社会状況として顕在化してきました。

高度経済成長期世代の子供たちである ③『不況期世代(30代 -10代)』は、物質面でも情報面でも、すでに多くのものが用意された環境に生まれ育ってきました。また、多くの選択肢の中から自分の好みを選ぶことに慣れている世代でもあります。

生活行動範囲が居住地域にほぼ限定され、個人が受けることのできる物も情報も限られていた時代では、「これしかない」「これでなくてはいけない」という形式や枠組みがあったのだと思われますが、私たちの生きる現代社会においては、有り余るほどの物と情報が溢れかえり、そこでは多様な価値観が個人に許され、それはまさに「なんでもあり」の様相を呈しています。

かつては伝統的な様式のなかで執り行うことが決められていた冠婚葬祭も、個人主義のもとに多様化した価値観が認められている現代においては「自分らしく」「自分で決める」ことが一般的になっています。成人式や祭事の参加も個人の自由とされ、結婚式の在り方も様々な形式がみられます。これまでの封建的な檀家制度のもとに執り行われてきた葬儀や法要の在り方も、「信教の自由」が日本国憲法で保証されているこの時代では、自らの意思で変えていけるのかもしれません。

日本国憲法 第二十条の二
「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」

人口ピラミッドに示されるグラフは、頂点から底辺にかけてゆるやかに広がった形であることが健全な状態であるとされます。1950年頃の統計にはそれが「富士山型」であったことが確認されますが、表紙に見られる現代の人口ピラミッドでは、その上部を支える底辺部分の広がりが崩れ落ち、非常に不安定な形になっています。これは、これから先に更に進行していくと予測される「少子高齢化社会」が現れ出てきた形です。

これからの日本がどんな状況になったとしても、人は一人きりでは生きていけません。必ず他者との関わりあいの中に、生きていかなければいけません。いくら価値観が多様化し、個人であることが重要視されたとしても、家族や地域を始めとした「共同体」が、人間として生まれ、老いて、病み、死んでいくには、どうしても必要なのです。

今世紀に入ってから生まれた子供たちは、まだ10歳に満たない幼少期を過ごしています。この ④『二十一世紀世代』には、「誰一人として同じではない」と同時に、「誰もが一人では生きていけない」ということにも気づいてほしいと思います。彼らが生きる未来の世界には、多様を越えて一つとなり、互いを認め合い、補い合い、助け合って、共に生きる「共同体(コミュニティー)」が現れていることを、私は心より願います。

現代の日本の伝統仏教は「葬式仏教」と言われ、「葬儀や法要だけを執り行う専門職」という、本意ではない呼ばれ方をしたりもします。葬儀、法要だけをやっていれば、それ以上には何も求めない、求めてもしょうがない、という見切り感が、世間一般にはあるのかもしれません。けれども本来の仏教寺院は、寺族が代表となって門信徒の皆様と共に運営する「共同体(コミュニティー)」であり、人々のなかにある不安や心配を緩和し、安心して生きていくためにある、みんなのための「場所」なのです。

人生の一大事である葬儀や法要は、寺族との信頼関係のもとに、次世代につながるような意義あるものにしていけるよう、互いに協力して作り上げていくべきものだと思います。また、公益的な組織である宗教法人が取り組むべき社会活動は多岐に渡ってあるはずで、門信徒の皆様の参加によって、それは様々な展開が可能なはずです。

「なんでもあり」の時代だからこそ「これだけは大切」ということを伝えようとする仏教の教えは、真に重要です。多様なものが時間と空間を共有し、みんなが心を一つにするための場所として、「お寺」はいまこそ見直される時だと、私は思っています。

琳空山 慶集寺 住職 河上朋弘