⑤ 遥かなるつながりと出遇いなおすところ (遠慶宿縁)
私という一人がこの世に生まれてくるには、二人の人が必ず必要です。それは、一人の男性と一人の女性と言った方が良いかもしれません。父である人と、母である人とが出会ったことによって、私は生まれてきました。
父という一人の人にも、父がいて母がいて、それは私にとっての祖父であり祖母でもあるわけですが、つまりは父が存在するにも、二人の人が必ずいたわけです。同様に母にも、父がいて母がいて、その人は私にとっての母方の祖父であり祖母であり、二人の人が、必ずいたわけです。
私という一人には、父と母という二人の人と、祖父母という四人の人が、必ずいるのです。
そしてまた、四人の祖父母にも同様に両親がいたはずであることを思うと、私には八人の曾祖父母(そうそふぼ)がいるということにもなります。
四人の祖父母とは、生活を共にしたことがあったり、生前中に会っていたり、写真に姿が遺されていたり、どんな人だったかを聞かされていたり、せめて名前くらいは知っていたりもするかもしれませんが、八人の曾祖父母にもなるとその像はかなりぼやけてしまいます。
八人いたはずの曾祖父母のことは、知らないことも当然のように思っているところはないでしょうか。
その八人の曾祖父母にも、必ず父と母とがあったことでしょう。男と女が出会わないと子供は生まれてきません。必ず二人の男と女がいたはずなのです。
八人の曾祖父母が生まれるには、十六人の人たちが、いたはずです。
この人たちを高祖父母(こうそふぼ)というそうですが、ここまでくるとその人たちがどんな人生を送ったか、どんな姿の人だったか、どんな名前の人だったかなんてことは、なかなか伝えられることもありません。
十六人の人たちが生まれるには、その先には三十二人の人たちが生きていたはずです。もうこれくらいになるともう「ご先祖さま」と言ってもよいくらいでしょうか。
けれども三十二人のご先祖さまで、その「 つながり 」が止まることはありません。その方々にも二人の両親がいたことを思えば、
その先には、六十四人。
その先には、百二十八人。
その先には、二百五十六人。
そのまた先には、五百十二人のご先祖さまが、
必ずいるはずなのです。
もちろん、そこでおしまいなわけではありません。
さらに過去へとさかのぼっていけば、
倍々になってご先祖さまの数は増えていきます。
それは果てしなく続いていって、
ご先祖さまのつながりは{ 永遠 }にひろがっていきます。
どのご先祖さまの一人がいなかったとしても、
今ここにいる私は、生まれてきませんでした。
今ここにいる私は、
永遠の命のつながりの中に生まれてきた、
一つの{ いのち }なのです。
そしてそのいのちのひとつひとつは、
すべてがどこかでつながっているのです。
わたしのご先祖さまは、
みんなのご先祖さまです。
ご先祖さまとは
果てしなくつながる永遠のいのち
のことをいうのかもしれません。
そのことを先人方は
南 無 阿 弥 陀 仏
といわれたのでしょう。
墓石に刻まれた「南無阿弥陀仏」の六文字は「浄らかに満ち満ちてある不可思議なるひかりといのち」という意味を現すものです。ひかりといのちに照らされて生かされて、おかげさまでありがたくしてある、この一人の私です。私たちひとりひとりなのです。
今はもう亡くなられた方々が、お墓の中でお骨になって眠られているわけではありません。お墓の中のような、暗くて狭くて寒かったりするようなところが、人の死後の行き先なわけがありません。ひかりといのちに満ち溢れた、人間の苦楽を超えた、真に自由な心の世界が、必ずあります。
亡くなられた方をご縁として墓前に立ち
南 無 阿 弥 陀 仏 と、まっすぐに向き合う。
往生された方々は、間違いなく
南 無 阿 弥 陀 仏 と、一つとなっていらっしゃいます。
今を生きる私たちもまた、いずれは
南 無 阿 弥 陀 仏 とひとつになって、往生します。
そのときまでは人間としての苦と楽を受け入れて、
それを乗り越えて、生きなければいけないのです。
我が人生の苦と楽の両方をよく味わって、
精一杯に生きていなければいけないのです。
墓前に立って合掌するとき、
私はけっしてひとりぼっちではありません。
家族と、仲間と、ご先祖さまと、先人たちと、
今は亡きあの人と
ひとつになっているのです
南 無 阿 弥 陀 仏 と ひとつなのです