Ⅰ そもそもからの捉え直し (1) そもそも「ブッダ」って?
① そもそも、神さま?仏さま?
「神だのみ 仏だのみ」とか「神も仏もありゃしない」とか言ったりしますが、神棚も仏壇も神社もお寺も、地域や親族の慣習として、ならわしやしきたりの下にこれまで伝えられてきたものであって、一般的な日本人の宗教観としては、神さまも仏さまもいっしょくたにして語られることが多いようです。
深く考えることなく、当たり前のようにして、なんとなくある「神さま」そして「仏さま」。けれども、そもそも宗教の中心になるものとして説かれる神や仏とは、そもそも一体どのようなものなのでしょうか?
まず、そもそも「神さま」とは如何なるものかと考えてみると、神と一言に言っても、世界にはさまざまな「神」がいらっしゃるようです。
キリスト教の「ゴッド」も神なら、イスラム教の「アッラー」も神だし、ユダヤ教の「ヤハウェ」も神です。これらの宗教はどれも、自らの信じる神が絶対唯一の神だと考える「一神教」といわれる在り方ですが、ゴッドもアッラーもヤハウェも、実はどれも呼び方が異なるだけで、本体としては同じ「一つの神」なのだということです。
一神教の神さまだけではなくて、世界を見渡すと、まだまだ沢山の神さまがいらっしゃいます。インドのヒンズー教には個性豊かなキャラクターの様々な神さまがいらっしゃいますし、古代ギリシャの神話には喜怒哀楽の愛憎劇を繰り広げる人間のような神さまが登場されます。こうした宗教のあり方は、複数の神々を同時に崇拝することから「多神教」と総称されます。
日本には八百万の神さまがいるといわれているように、日本の神道も「多神教」の一つに数えられるものです。日本の神さまで有名なところとしては、イザナギ・イザナミの夫婦神や、天照大神(あまてらすおおみかみ)や須佐之男命(すさのおのみこと)などがいらっしゃいます。けれどももちろんそれだけではなく、日本国内のあらゆるところに様々な神社が遍在していて、それらの神社にはそれぞれに固有の神さまが祀られています。
古来「一木一草に至るまで神宿る」と言われるように、自然界の木や石などのモノ、山や海などの場所、また、風や雷のような自然現象にも、日本人は神の存在を感じてきたようです。けれどもそれだけではなく、菅原道真の天満宮や、豊臣秀吉の豊国神社、徳川家康の東照宮など、歴史上に実在した人物を祀る神社もありますし、長い年月を経て使われてきた道具に聖霊が宿って、それが人をたぶらかすという「付喪神(つくもがみ)」のような、とてもユニークで面白い神さまもいらっしゃいます。
現代においても「野球の神様」とか「漫画の神様」とかいうような表現もあったり、更には「トイレの神様」までいたりして。日本の神さまは選り取り見取り、百花繚乱の様相です。先に示した一神教の信仰と比べると、神と一言にいってもその在り方は相当異なっているように、それぞれの宗教によって神の捉え方も、さまざまに異なっていることがわかります。
では、世界中には様々な宗教があって、様々な神さまが無数にいるのであれば、それらに共通する「神の概念」とはどのようなものなのでしょうか?
そしてまた、なぜ殊更に仏教だけが、他の神さまとは別にして「仏さま」と呼ぶのでしょうか?
「神の概念」とは別にしておかなければいけない、仏教に特有の「仏の概念」があるはずなのではないでしょうか?
刑事ドラマのセリフなどで、亡くなられた方のご遺体を「ホトケ」と言ったりすることがあります。辞書をひいても「仏」の項目には「悟った者・仏教の信仰の対象・仏陀・仏像」という説明とともに、「故人・死者」という意味が記されています。確かに、亡くなられた方に対して、「成仏していてほしい」と願うこともあると思います。
成仏とはすなわち「仏に成る」ということですが、亡くなられた方が「神に成る」というのはあまり聞いたことがありません。アスリートの活躍に「神ってる」などといったりすることがあったとしても、それはあくまでも、抜きん出た能力を持っている人への賞賛として用いる表現であって、人間が「神に成る」というのは、一般的ではないような気がします。
けれども、私たちのようなごく普通の生活者であっても、成仏だったらできるんじゃないかなとか、亡くなられた方は成仏しているはずだとか、そう思うことはあるのではないでしょうか。
では、そもそも「ほとけ」とは如何に?
そもそも「ブッダ」とは如何に?「仏教」とは如何に?
そもそもに立ち戻って、考えてみたいと思います。