購入して3ヶ月。なかなか進まないエンディングノートの書き込みですが、あんまり無理せずマイペースに、書けそうなところから少しずつ書いていこうと思って、ページをめくってみます。
さまざまな個人情報を記録しておくページに続くのが、「家族一覧」と「親族一覧」そして「友人・知人一覧」のページ。日頃からお付き合いのある方々の連絡先などを書いておくページということで、身近なところから書いてみようと思ったのですが、
はたと思ったのが、どこからどこまでが「家族」ということ?
かつては一緒に住んでいたことがあるという関係を家族とするなら、すぐ近所に一人で暮らしている母親はもちろん家族だし、東京と京都にいる姉二人も家族だと思うけど、「世帯」でいうならみんな別世帯です。
いま一緒に住んでいる同じ世帯のことを「家族」とするなら、うちは私と奥さんと子供3人の5人家族。なのかな?
うちの奥さんにとって、実家のお父さんやお母さんや兄弟はもう家族ではないのかっていうと、そんなことはないと思う。別々に暮らしていても「家族」という意識があるはずです。
現代では、離婚や再婚という可能性だって多くあります。
子連れの再婚を「ツレ婚」といったり、そうしてできた新しい家族を「ステップファミリー」といったりするようですが、そんななかで誰を自分の家族と感じるかは、その人の感じ方次第なのではないでしょうか。
必ずしも家族であるために、血のつながりがなくてはいけないということは、ないはずです。家族のように身近に感じる、親しみを感じる関係のことを、「家族」としておいてもよいのではないでしょうか。
「家族」の概念なんて、それぐらいにあいまいでゆるやかな関係にしておいてもいいのではないでしょうか。
親戚に関しても同じで、一言で「親族」といっても、近くに住まいして日頃から行き来している親戚もあれば、年賀状のやりとり程度の関係もあるし、完全に連絡の途絶えてしまっている方だっています。
家族も親族もずっと変わらず同じなわけではなく、時間の経過につれてそれを構成するメンバーだって変わっていくし、そのあり方も変わっていくものなのだと思います。
どこかに住まいしている限りは必ずご近所さんがいるわけであって、それを「地縁」といいます。人が生まれてくる限りは必ず親子や兄弟のつながりがあって、それを「血縁」といいます。働いて収入を得なければいけない限りは必ず仕事で関わるひとたちがいて、それを「社縁」といいます。
地縁・血縁・社縁という3つのつながりは、どんな人にとっても人間関係の基本となる大事なつながりなはずです。
けれども昭和の64年間、そして平成の31年間を経て、これらのご縁のあり方は大きく変わってしまったようです。
いまのように人口流動が頻繁ではなかった時代であれば、ひとつの地域のなかにほとんどの親族がいて、その地域で働いて、人々の暮らしやなりわいや営みは、その地域に深く結びついていたのだと思います。
けれどもいま、自分の家族・親族・友人・知人をエンディングノートに書き記してみると、そこに書いておきたいと思う人は、必ずしも同じ地域に住む人ばかりではなく、県外や国外にいるひとも多かったりします。
現代においては、自分の住まいする地域だけで世界が完結するということはなく、地域の範囲をはるかに越えて、人のご縁はつながっています。インターネットやSNSが世の中に広く浸透したことで、その傾向はさらに進んでいくのだと思います。
かつては緊密にあった地域や親族のご縁も、現代では疎遠になりがちなようです。仕事のご縁に関しても、共に働く仲間と一生を通じて付き合っていくということは、なかなか稀なことでしょう。
NHKが「無縁社会」というタイトルで孤独死の社会現象を報じたのは2010年のことでしたが、今年の3月末に内閣府が公表した、40~64歳の中高年のひきこもりが全国に約61万人(!)という推計は、いまの日本の受け止めなければいけない現状です。
あまりにも地縁・血縁・社縁が強すぎる社会では、それがしがらみや拘束にも感じられて、面倒臭さや煩わしさがあるのだと思います。
そんな人間関係をなるべく避けようとしてきた結果、三世代同居は少なくなって核家族化が進み、近所付き合いや職場の付き合いも希薄になっていったのだと思います。
私の住まいする地域でも、最近新築された住宅は、窓がとても小さくなってきているように感じます。防断熱、防音、防犯を優先する結果、そうなっていったのだと思いますが、プライバシーが重視されて、生活が個別化している現れのようにも思えます。
都会での生活やマンション住まいでは、隣にどんな人が住んでいるのかわからない、近所付き合いがないということはよくあるようですが、地方であってもそれは同じなのかもしれません。
社会とのつながりを断って家の中にひきこもって暮らしたとしても、同じ家に住む家族がいて生活に必要な支援をしてくれるからこそ、それに依存して生きていられるのでしょう。
ただ一人で部屋にひきこもっているとしても、完全な孤立は耐え難いからこそ、インターネットにつながり、SNSや通信ゲームにつながりを求めて、一人の時間を過ごすのでしょう。
面倒で煩わしいつながりは避けていたいけれども、誰かとのつながりを無くしては生きていられない、そんな矛盾した感情を持つのが、私たちなのでしょう。
前回にも書きましたが、仏教の出発点は「ひとはみな独りである」ということです。誰も皆、かけがえのない「ただ独り」であって、誰一人として同じ人はいません。
ただ独りの私として、一人生まれ、一人生きて、一人死ぬのです。
けれどもただ一人である私は、一人でありながら、一人だけでは生きていません。
必ず何らかの「縁」のなかにあって、そのつながりのなかで関わり合いながら、生きています。誰も皆、父と母とのご縁に生まれ、兄弟姉妹や友人や隣人や、さまざまなご縁のなかに生きています。
いいもわるいも、縁は縁。
好ましい縁もあれば、なるべく避けていたいと思うような縁もあるでしょう。
けれどもどんなご縁もいまの自分を形作る条件であると思うなら、どんなご縁であっても受け入れて「この私」を生きていかなければいけません。
なるべくならばよいご縁でありたいところですが、酸いも、甘いも、苦いも、辛いも、しょっぱいも、味わって生きるしかないのが「人間関係」なのでしょう。「ご縁」なのでしょう。
ほどほどのところの距離感をもって、ちょうどいいところで、できれば「和」な感じでいられれば、そうありたいと思っています。