二〇一三年 五月 六角堂にて 慶集寺住職 講演録 ③ (追録:宮城福島訪問記)



2002年に長女が生まれて人の親になり、続く長男が生まれた2004年には慶集寺の住職となり、手探りでの子育てと寺づくりのうちに、子供たちは成長して小学生になって、そして両親は老齢となっていきました。

30代のうちは両親もまだまだ元気だったのですが、親子ともどもに年を重ねていくにつれ、次第に頼ることより頼られることの方が多くなっていきました。子供たちはどんどん大きくなって、親としてしっかりしなきゃ、と思わされることも多くなりました。

そうして私も40代になって、家庭でも社会でも、それまでとは役割が変わってきたことを感じざるを得なくなってきた2011年の春、3月11日、東日本大震災が起きました。



【 ③ 東日本大震災を越えて 未来につながるお寺 】



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富山でも長い揺れを感じたのですが、まさか現地があんな状態になっているとは思いもしませんでした。テレビをつけて映し出された光景は、まるでスペクタクル映画の特撮シーンのようにも見えて、とても日本国内で現実に起きていることとは思えませんでした。

海辺の町に住む者としては、日本列島の沿岸全体が危ないんじゃないか、間を置かないで富山にも災害が起きるんじゃないかくらいに思って。いまがどれぐらいに平常で、どれぐらいに緊急時なのかもわからないまま、家族を守るためにはまず何をすればいいか、寺の住職として何をするべきか、心の震えを押さえて考えを巡らしていました。

そしてその後の、福島第一原発、事故のニュース。まさに目の前が真っ暗になるような思いに襲われました。高度経済成長期に生まれ育ち、バブル景気に浮かれる社会に学生時代を過ごし、景気の停滞をいわれながらもなんとかなるんじゃないかと漠然と思いながら、なんとなく生きてこられたようなこれまでの半生が、根底から覆されるような衝撃でした。

震災を機にフェイスブックに登録をして、インターネットとテレビと新聞で情報を収集。計画停電になっていた首都圏の状況が気がかりで、東京に住む親族や友人に連絡を取りました。みんなが不安な気持ちでいることを同様に感じましたが、それぞれから聞く東京の状況はまさに人それぞれで、みんなの捉え方が一様なわけではないことも感じました。

琳空館に展示してある「阿弥陀如来画像」を描いてくださった、画家の薬師丸郁夫さんが宮城県岩沼市にお住まいだったことが被災地との唯一のつながりで、震災数日後にようやく連絡が取れた時には、とりあえずの無事にほっとしたと同時に、現地からの生の声を聞いて、現実感のない現実がぐっと押し寄せて来たような感じがして。とんでもないことがやっぱり本当に起きてしまったんだと、現状の認識を改めてしました。

その後しばらくして、放射能汚染の被害を逃れて東北から避難された薬師丸ご夫妻が、関西方面へと向う途中に富山に立ち寄られました。そしてその機会に、警戒区域の福島県南相馬市から福井県永平寺町にご家族で避難されていた曹洞宗寺院、同慶寺のご住職、田中徳雲氏を紹介していただいたことから、原発事故の被害地域との直接のつながりができました。

もう情報だけのことでは済まされない、他人事ではいられない、自分も同時代の一人として大震災や原発事故に関わっているんだと、強く感じさせられる「つながり」でした。


ボランティア活動のために被災地に出向かれた方々がたくさんいらっしゃったことを思うと、相変わらずの日常の多忙で富山を離れられないことをもどかしくも感じましたが、自分が今できることを精一杯にやっていこうと思って、被災地義援金の呼びかけや脱原発のアピールに取り組むようになりました。それまではなんとなく流し読みしていた新聞を、なるべく複数の紙面を比較するようにして読み込むようになったし、インターネットからの情報で、それまでは知らなかった多くのことを知るようにもなりました。日本の社会について真剣に考えるようになり、震災以前にはそれほど意識することがなかった東北地方のことを、もっと知りたいと思うようになりました。

被災地の現実と自分が生きている現実はつながっているんだから、自分の意識を変えていかなければ、現地の状況は変わっていかないんだと自分に言い聞かせて。被災された方々、被災されながらも自分のお役目を必死に勤めている方々のことを思えば、自分はまだまだ頑張らなければいけない、まだまだやらなければいけないことがあると思って。
富山に居ながら今できることを考えて、一所懸命にそれを勤めていたつもりです。



そして311から約半年が過ぎた2011年9月30日、3人目の子供となる次男が誕生しました。混沌とした状況のなかにあって母子共に無事数ヶ月を過ごし、健康な状態で出産できたことにまずは安心したし、どうしても暗いニュースで沈みがちになってしまっていたところに生まれてくれた新しい子供は、まさに希望の光でした。どんな状況にあっても、一人の自立した人間として確かに生きていてほしいという願いを込めて、「 民(たみ)」と名付けました。

全国各地で脱原発デモが活発化し、市民運動の勢いがこれまでにない高まりをみせていた時期です。何かやらずにはいられない、何も言わないではいられないという気持ちで、子供たちの未来のために、自分に嘘のないやり方で、社会に参加していこうと思って。
寺から街へ飛び出していく覚悟で、いくつかの市民イベントを富山で企画開催しました。




薬師丸氏の作品18点をポストカードにする許可をいただき、それを媒介にして義援金を集める活動をしたり、そうして集まった義援金を活用して、田中住職の寺院復興を応援するプロジェクトを進めたり。いただいたご縁を活かして、富山に居ながらも被災地に直接関わっていこうと、自分なりにやってきたつもりでした。

けれども、富山での日々の生活を生きていく中で、時間の経過とともに目の前にある現実的な問題が上書きされていくにつれ、現地と遠隔地には「温度差」があるようにも感じてきて。

テレビを観ても、新聞を読んでも、インターネットをつなげてみても、
「 現地の現実が分からない 」というのが、自分の正直な感覚になっていました。

そんな思いをそのままに田中住職に電話でお話させていただいたとき、

「 現地で起きていることを、自分の経験や記憶として焼き付けない限り、
  それは仕方のないことだと思います。 」 と告げられました。

そうして2013年の春、震災三回忌を機に、宮城・福島へ行くことを決めました。


新潟に住む友人と二人、四泊五日の車での旅でした。
宮城と福島の被災地を巡り、旅行中に経験したいろいろな出来事は、
今振り返っても、胸が締め付けられるような思いを、蘇らせることばかりです。







2013/03/20-25


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車窓から見る国道沿いの風景は、どの県もまるで同じ。



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薬師丸夫妻を訪ねた宮城県では、震災復興の公共事業に活気づく建設業界のダンプカーが、土埃をあげて街道を行き来していました。海岸部の整地や堤防造りのために、山を切り崩し、大量の土を海の方へと運び出しているのだといいます。

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震災前は漁業が盛んで朝市が有名だったという「 閖上(ゆりあげ)地区 」。かつてあった港町の街並は、一件残らず津波に流されたらしく、震災の跡が片付けられて何もなくなったそのエリアは、雑草が生えて野原のようになっていました。

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掲示板に張られた写真に映る、かつての港町の風景は、
慶集寺のある町「 東岩瀬 」に、どこか似ているようにも感じられて。
ここにあった町とここに住んでいた人びとのことを想像しようにも、
あまりにも何も無くなってしまったその景色を前にしては、言葉を失うばかりで。

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地域の再建計画は二年経っても滞ったままらしく、公共事業として進められる整地が、殺風景で荒涼とした土地を広げていました。この土地が再び人の暮らせる町に戻るという想像が、とても難しく感じられるのが正直な思いでした。

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田中徳雲住職を訪ねた福島県南相馬市の小高山 同慶寺。由緒ある山寺の周辺にある町や集落は、車の往来も人影もなく、ひっそりと静まり返っていました。

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地盤とともに寺社が傾き、玄関の扉が閉まらない。警戒区域内のために寝泊まりする事が出来ず、かつて家族で住んでいた庫裡はネズミの巣窟になっていると、田中住職は語られました。

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相馬家代々の菩提を祀る墓石が、地震のために崩れていました。
まずはこの墓石を建て直すことが、寺院再建の一歩なのだと、住職は希望を語られました。





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同慶寺の在る高台から、海の方へと車を走らせていくと、海から打ち寄せた津波がそこで止まったという鉄道の線路があり、そこを越えると、残されたゴミの山と、津波に流されて持ち主の見つからない自動車が、数台放置されたままになっていました。
南相馬市の津波による死者は、300人を越えたといわれます。

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津波は15メートル程の高さで巨大な壁のようになって陸に迫り、やがて2メートルほどの高さで陸を走って、二階建ての建築物の一階部分を突き破って打ち寄せ、引き返し、何度もそれを繰り返して、人の営みを奪っていったといいます。

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放射能汚染による立ち入り制限があるため、二年経っても瓦礫や廃屋の撤去作業は完了しておらず、津波の脅威を物語る残骸が、まだ生々しく残っていました。

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壁に囲まれた場所に、真っ黒の大きな袋がたくさん積まれて置いてありました。
どこにも行き場の無い、高放射線量の瓦礫が、入れられているのだといいます。



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福島第一原発は岬の向こう側にあるため、海辺に立っても見えませんでした。
どれだけ近くにいっても、どの場所からであっても、
決して見えない場所に、原発は建てられているのだそうです。




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震災後の過酷な避難生活の中で亡くなられる「震災関連死」が
原発事故の最前線地域である南相馬市では、特に多いといわれます。

大震災による被害は、今もまだ終ることなく続いていることに、心が痛みます。

お預かりしていた仏画の複製品を、東日本大震災三回忌の記念として同慶寺様に奉納し、
震災で家族を亡くされたご遺族のご法要に同席、参拝読経させていただきました。





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南相馬市を出て栃木方面へと車を走らせている途中、
放射線量の高い「ホットスポット」として知られる飯館村を通りました。
海岸部から遠く離れた山間の町で、津波による直接の被害はまったくない地域なはずですが、

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いまはもう国から指定された計画的避難区域になっており、
人っ子一人歩くことのない「ゴーストタウン」になっていました。









旅を共にした友人と新潟で別れ、一人ハンドルを握っての帰り路、旅での出来事をどうにか整理したいと思いながらも、どうこの経験を持ち帰ればいいのか、困惑している私がいました。

被災地と富山の違いは「温度差」どころではなく、
「次元差」と言わなければいけないほどの、そこに漂う「空気感」の違いでした。

現地の空気を実際に吸って、直に肌で感じて、メディアを介した「情報」によってではなく、言葉にならない「感覚」で、311が漸く自分の「現実」になった気がします。


人それぞれの見る現実は、それぞれの「実感」によって受けとめられることであり、
自分の現実問題ほどには、他者の現実を感じ取れていないのが、私たちなのかもしれません。

現実の共有は、共に今を生きているという「共感」があってはじめて、
私たちに起きることなのかもしれません。


新潟から富山の県境を越えたときに打ち寄せた思いが、いまも心に焼き付いています。


家族。 友達。 仕事。
故郷。 日常。 生活。
感謝。 信頼。 安心。

なくさないように、大切にすること。



東日本大震災での悲痛な出来事は、いつまた誰に起きてもおかしくないことであり、当たり前に思っている普通の日常が、あっという間に奪われてしまうことが、この世界には現実にあるということ。すべてのものは不確かなままに、確かに、いまここにあるということ。

自分の存在を足元から見つめ直し、すぐそばにあるところから、一番身近なご縁から、しっかりと向き合っていくこと。どんなご縁も有り難く、受け入れていくこと。自分の思うようにはならない現実に、少しずつでもよくなっていくよう、前向きに関わっていくこと。

同じ日本にありながら、いまもまだ、震災で失ったものの大きさに、深く傷ついたままに生きている人たちのいる現実を、決して忘れずにいること。誠実につながりつづけていくこと。




私たちはそれぞれに、それぞれのかけがえのない人生の現実に、
向き合って生きていかなければいけません。

誰と取り替えることもできない自分の一生を、
精一杯に生き抜かなければいけないのだと思います。

人それぞれがそれぞれに、思うようにはいかない現実を耐え忍び、
自分なりの精進を努め続けなければいけないのだと、思います。


いまここに生きているという現実を、実感して、生きていく。

生かされて生きているという真実に、共感して、生きていく。

未来から差す希望の光に照らされて、前を向いて生きていく。 共に生きていく。


それぞれの人生の苦楽を乗り越えて、やがて辿り着くだろう希望の光の先にあるところは、
ひとつの命の源なのだと、ひとつの心の故郷なのだと、信じて生きていこうと思います。



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