二〇一三年 五月 六角堂にて 慶集寺住職 講演録 ②



【 ② 住職になって 時代に応じたお寺であるために 】

29歳で富山に帰郷して一念発起、僧侶としての新しい生活をはじめたものの、妻も私も都会暮らしの気ままな生活に完全に慣れきっていたので、最初の頃はすべてが手探り状態でした。妻にとっては見知らぬ土地、寺とのつきあいも仏壇もない団地育ちの彼女にとっては、突然異文化に放り込まれたようだったと思います。私にとっても、生まれ故郷でありながらも20代を10年間まるまる離れていた地元だったし、資格は持っていても僧侶としての生活はそれまでにまったくしたことがなかったわけで、しばらくはやっぱり異文化状態でした。

東京での付き合いはほとんどが自分と同年代の人たち。同じような趣味嗜好の人たち。生まれ育ちに関わるようなプライベートには一線を引くような関係が当たり前で、アパートや借家住まいだと、地域の町内会活動なんて参加しない。街には溢れるようにたくさんの人がいても、結局付き合いのある交友関係は限定的なものだったように思います。

ところが富山での新生活では、ご高齢の方々とのおつきあいがほとんどで、趣味や関心が同じような友人もほとんどいなかった。地域の活動にもどう関わればいいのかなかなかつかめなくって。まったくといっていいほど、それまでとは生活環境が変わってしまったんです。

けれども少しずつ、地域や門信徒の方々との付き合いにも慣れていきましたし、大好きな音楽などの趣味をきっかけとして、面白い友人の輪も広がっていきました。やっぱり生まれ故郷なんですよね。共通のベースがある。ご縁がある。コンパクトな富山平野に比較的定住型、知り合いの知り合いは知り合いみたいな、人と人とがつながりやすい土地柄なんだと思います。奥さんも住みやすい良いところだと思ってくれたようで、三人の子供を育てる母親となった今では、すっかり富山の人間になっています(笑)

僧侶という職業柄もあるとは思いますが、世代を越えていろんな人たちと、いろんな交流を深められるようになったことで、世界観は東京の頃よりもむしろ広がっているように思います。ほんとに人それぞれ、いろんな人がいるものだなあと思います、この世界には。


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21世紀になってからの地方はどこもそうなんだと思うのですが、この十数年間でコンビニや大型ショッピングセンター、フランチャイズの郊外店はどんどん増えていったし、なんといってもインターネットや携帯電話が普及したことで、地方であることの不便さをそれほど感じることがなくなった。車があればどこでも行けるし、渋滞もない。海あり山ありの自然の豊かなところなので、楽しみ方次第でいろいろな遊びがある。2015年の春には北陸新幹線が開通して、東京と富山が2時間ちょっとでつながるようになるんですよね。東京に行く用事があれば気軽に行けるようになるし、東京からも遊びに来てもらいやすくなるので、都会から遠く離れた僻地だったり、娯楽がなんにもないような田舎、という感じはないですよね。けれどもそんな時代の変化のなかで、地方がどんどん都市化していくことで、これまでに引き継がれてきた富山ならではの精神風土が、急速に失われてきているようにも感じています。


富山はかつて「真宗王国」っていわれたほどに浄土真宗の教えが広まっていて、お念仏の信仰がとても盛んなところだったといいます。かつてはお寺が公民館のように地域のセンター的な役割をしていたといいますし、寺子屋のような子どもの教育施設だったり、娯楽がそれほどなかった時代では老若男女が集う憩いの場でもあったといいます。お寺は人の集まる場所であり、そこで伝えられてきた地域特有の文化があったはずなんです。富山に生まれた今の人たちの3世代4世代前までさかのぼれば、私たちのご先祖さまたちはみんな、日常的にお念仏を称えながら、仏さまを身近に感じて生活していたはずだったと思います。

私が子供の頃のお寺の本堂は、行事のときにはお参りの人たちでいっぱいだったし、とても活気がありました。なんまんだぶ、なんまんだぶと響き渡る念仏の声が、お香の煙とともに本堂に満ち溢れていたような、そんな記憶があります。多分その頃にお参りされていた方々は戦前生まれの方がほとんどだったはずなので、今いらっしゃる80代、90代、それ以上の年配の方々がまだ元気で若かった頃。今から3、40年ほど前には、そんな生き生きとしたお寺の光景がまだ確かにあったんです。

私たちが慶集寺に入った15年前には、もうかつてのような雰囲気はありませんでしたが、伝統的な年中行事をとても大切にしてお勤めされる方々がまだまだいらっしゃいましたし、先代の住職と坊守(私の父と母)も今よりもずっと気力体力充実していたので、それまでに続けてきたことを守っていかなければいけないと、まだまだ頑張っていました。

けれども年を経るにつれて、お寺に来れなくなる人が増えきて。けれどもそれに続く次の世代のお参りは、なかなか増えることがなかったんです。戦後の経済成長期に働き盛りだった世代、そのあとの団塊の世代、そしてそれ以降の世代には、お寺参りをするという習慣が、引き継がれていかなかったんだと思います。

私が慶集寺の住職を継いだ8年前には、お寺を支えてくださっていたのは戦前・戦中生まれの方々が中心だったし、古くからのしきたりや習わしが根強いお寺の業界で、これまでのやり方を変えたり、新しいことを始めたりするのに抵抗を感じる方々は、まだまだ多かったと思います。けれどもこれまでのやり方をただ引き継いでいくだけでは、次世代の寺離れは進んでいくばかりだろうし、とりあえずは先代の体制を継承しながらも、新しい住職としていろんなことに挑戦していこうという気持ちでいました。

とりあえずは試みにでも、手探りにでも、新しいお寺づくりを始めていこうと。


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7年前の2006年に、私たちの住む東岩瀬町にライトレールという近未来的なデザインの路面電車が開通することになって、それと同時期に、慶集寺のある岩瀬大町の旧往還道「岩瀬大町通り」が、電柱を無くして歴史的な街並を再生するという、富山市の公共事業の対象になりました。それを機会に始めたのが多目的フリースペース「琳空館(りんくうかん)」です。


岩瀬大町通り沿いにあるこの場所で、街を行く人が気軽に立ち寄れるような、ちょっとした音楽会やアートの展示もできるような、ギャラリーのような空間をイメージして。もともとはガレージとして利用していた軽量鉄骨の倉庫をリフォームするところから、いろいろな友人たちに協力と参加を呼びかけました。コンセプトは「間口が広く 敷居は低く 奥深いお寺」です。


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子供たちの「花まつり」やフリーマーケットの「縁日」。アーティストによる個展・グループ展。高校生のプチ文化祭。三味線教室の発表会。インド舞踊や即興音楽など、さまざまなジャンルのライブ。お米のポン菓子ぱっかんやオーガニック食堂、リラクゼーションマッサージのお店などを友人たちが営業していたこともありますし、映画上映会、トークショー、ワークショップ、ヨガ教室。結婚式や披露宴もやりました。さまざまな出会いと試行錯誤の中で、本当にいろいろな活動をやってきました。


東京に住んでいた頃に始めたホームページ「リンクエイジ」をお寺のホームページとして続けてきたことの効果もあって、県の内外を問わず、いろんな人が「琳空館」に訪れてくださいました。地方にある小さな町の小さなお寺の情報を、インターネットが世界中の縁あるところに届けてくれていることを実感します。トライ&エラーを繰り返しながらも、いつも実験的にやってきたことばかりなのですが、さまざまな方々との有り難いご縁がいまも広がっていることを思うと、実験の成果もそれなりにあったように感じています。

お寺は本来、人が集まるための場所です。多くの方々が関心を持てるような工夫をして、それを宣伝して参加を呼びかけ、みんなでよい時間を過ごし、後ろ姿を見送る。人の集まる場所であるお寺に生まれ育ち、そういう雰囲気のなかで育ってきたから、人が集まる場所や機会を創りたいと、いつも考えているのだと思います。



六角堂での講演録に加筆・追録して
「③ 東日本大震災を越えて 未来につながるお寺」



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