① 親鸞聖人は自然葬を言い遺した ( 自然法爾 )




浄土真宗の宗祖・親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、
「 私が死んだら、その遺体は賀茂川に流して、魚のえさにしなさい 」
と言い遺されたといいます。

近年では、自分のお葬式やお墓について生前中から計画を立てて準備をしておくことは「 終活(しゅうかつ)」とも呼ばれるようになってそれほど珍しくもないようになりましたが、親鸞聖人の場合はいたってシンプルで、川に流してくれればそれでいいというのです。

川に遺体を流してしまえば、魚につつかれてその姿形は無くなってしまうだろうし、やがて海へと流されてしまえば、遺骨が遺されることも無いわけだから、後の人がその始末に煩わされる心配もないというわけです。

現代風に言うなら、「 自然葬 」ということでしょうか。






親鸞聖人の孫にあたる覚如上人はこのお言葉の本意を、

「 人間の肉体に執着しないで、仏法の伝える信心(しんじん)こそを第一義としなさい。
  聖人は後世の人に、その心を伝えようとされたのだ 」

と読み解かれ、さらには、

「 このことから思われるのは、仏教を志す者にとって、
  葬儀や供養を最も大事なこととするべきではないということだ 」

と、自らの考えを述べられました。


親鸞聖人がその人生をかけて伝えようとされた教えは、「 自然法爾(じねんほうに)」に究まります。それはつまり、人為的なこだわりやはからいを捨て去って、自然のありのままにまかせきってしまうということです。

そんな信念を持つ聖人にしてみれば、自分の死後の肉体の行方、遺骨の行方、魂の行方などというものは大して重要なことではなく、自然にまかせておけば、それでよかったのでしょう。

大自然に満ち満ちてある「 本願力(ほんがんりき)」こそが、いま私たちが学び信じるべきすべてであるということを、聖人は伝えようとされたのだと思います。


けれども、聖人が往生を遂げられて大自然に還られたということは間違いないことであったとしても、この世にのこされた遺族や門弟たちにとってみれば、敬愛する聖人のご遺体やご遺骨をただの物質であるとは、思えるはずがなかったのでしょう。

魚につつかせておけばいいとは、到底思えるはずがなかったでしょう。

聖人の意には反していたのかもしれませんが、滅後のご遺体は火葬されて、そのご遺骨は京都の大谷の地に埋葬され、遺族によって大切に護持されることとなりました。

そしてそれがやがて、孫である覚如上人によって寺院の形態に整えられて「 本願寺 」というお寺になって、それが今では「 浄土真宗本願寺派 」という仏教宗派として、国内有数の大教団にもなっているのです。

親鸞聖人は亡くなられても、そのご遺骨はこの世に護られて、
今もなお、そのご遺徳を偲ぶ「 よすが(縁)」となっているのです。


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