(2)六道を廻る私たちは、餓鬼?!

そんな目連が、不思議な神通力をもって瞑想のなかで観想したのが、
自分のお母さんが逆さ吊りにされている、痛ましくも悲惨な姿でした。

私たちはよく自分の行き先を、天国か? 地獄か?などといって、
思い巡らしたりもするわけですが、
こうした考え方は、仏教の説く「 六道輪廻 」の教えを知らなければ、
ただの不安や、迷いや、恐怖をもたらすものにしかなりません。

六道輪廻とは、① 天上 ② 修羅 ③ 人間 ④ 畜生 ⑤ 餓鬼 ⑥ 地獄 の
六つの世界やそこに行く道をいうものであって、目連が見た母の姿は、
いわゆる「 地獄界 」ではなく、「 餓鬼道 」にある姿でした。

ではまず、これら六道の一つ一つを、説明していきましょう。


 チベット曼陀羅の六道輪廻図



① 天上界
天上は、天人の住む世界です。
天人は人間よりも優れた能力を持つ存在であって、
その苦しみも、人間に比べると、ほとんど無いとされています。
だからといって、煩悩が無いわけではないし、
現状に甘んじて真実を求めようとすることもないので、
どれだけ優秀な天人だからといって、仏の悟りを開いているわけではありません。


② 修羅道
修羅道は、阿修羅(あしゅら)となって生きる道です。
阿修羅はいつでも戦いに明け暮れて、対立の構図のなかで、争いのために争っています。
怒りや欲望による苦しみにいつも苛まれて止みませんが、
勝ち負けによる優劣や損得の結果は、それぞれの能力や努力によって決まるので、
阿修羅の道は、天上界にもつながるし、地獄界にもつながっていきます。


③ 人間
人間であるということは、人間らしい生き方をしていてこそ、人間だと言えるものです。
人間であるということは、自分の思うようにはいかない世界を生きるということなので、
四苦八苦しながらいつも悩まされている、苦しみの多い世界ではありますが、

かといっていつも苦しみばかりなわけではなく、人間らしい出会いのよろこびもあります。
そして人間として生きていることが、仏教に出会える大切な条件でもあるので、
人間らしくあることで、悟りを開くことにも成り得ます。


人間は、阿修羅のように他者と戦い、それに勝ち抜くことで、
天にも上るような「 有頂天 」にもなることがあるかもしれませんが、

ただ自己本能による生存のためだけに、食うか食われるかの修羅道を行くのであれば、
それは他の動植物と、それほど代わらない生き方です。

修羅道が、人間道より上に置かれることもあれば、
下に置かれることもあるのはこのためであって、

人間としての知性や感性や理性を失って
ただ本能のままに生きているだけのようであれば、

畜生 → 餓鬼道 → 地獄界 と至る、悪循環の道へと堕ちていきます。




④ 畜生
畜生とは、鳥獣虫魚など、人間以外の動植物の在り方です。
生存欲求のままに本能的に行動して、物事を深く思考することなく、
牛馬のように使役されるがままであって、自らの意志をもって生きることがなく、
仏の教えを聞こうとすることもない、救いの少ない在り方です。


⑤ 餓鬼道
餓鬼道は、まさに、餓えた我の鬼の生きる道です。
生理的な生存欲求を満たそうとするのはごく自然なことですが、
それ以上に膨らみ続ける欲望を野放しにして、他者を顧みることもせず、
自己中心で自分勝手なことばかりやっているならば、自業自得の道理によって、
渇望に苛まれ、飢えや乾きに苦しむことになってしまいます。


⑥ 地獄界
地獄道は、自らの犯した罪業を自らが償うことを強いられる、苦しみの極まった世界です。
おぞましくもさまざまな形をもって、身体や心に厳しい責め苦を受けなければいけません。



畜生にも劣るといわれるのが、餓鬼の生き方です。

それは、人間特有の自己の執着、我執に基づくものです。

そして、餓鬼道の行き着く先には、地獄の苦しみが待っています。



目連の母は、餓鬼道へ堕ちた姿で『 盂蘭盆経 』のなかに現れてきました。

では私たちは果たして、六道界のどの世界に現れるべき存在なのでしょうか?

表向きには人間の顔を見せていても、その心中は阿修羅の形相であったり、
その生き方は畜生とそう大差なかったり、
天にも上れば地獄にも落ちるような気分の浮き沈みに、
いつも心を迷わせている、私たちです。

自己欲求に忠実で、他人に厳しく、自分に甘い。

わかっちゃいるけど、やめられない。 わかっていても、ついつい、やってしまう。

そんな手にあまる欲望に溺れそうになっている私たちには、
餓鬼の姿こそ、ふさわしいのかもしれません。






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