ここに紹介した『 盂蘭盆経 』のお話に由来して、
中国では安居を終えた僧侶たちに飲食などの施しをしたり、
祖先の霊を供養したりする行事として「 盂蘭盆会 」が行われてきたようですが、

このお経はどうも、仏教がインドから日本へと伝わっていく過程で、
中国の儒教や道教が混ざって作られた「 偽経 」
つまりはインドの仏典の翻訳ではない後代になって創作されたお経のようです。

天台宗や真言宗、浄土宗、禅宗、日蓮宗、そして浄土真宗など、
様々な宗派の教えとして現在に伝えられている日本仏教は、
約二千五百年前のインドで説かれた釈尊の教えが、
そのままに伝わってきているとはいえないもののようで、
中国や日本にある土着の宗教や習俗が混ざりながら、
日本人の文化や習慣として、いまに伝わってきているもののようです。

では、「 神通力 」や「 餓鬼道 」など、本当にあるのでしょうか?

また、僧侶に施しをすることを勧められた、お釈迦さまの真意は、何だったのでしょうか?

この『 盂蘭盆経 』が現代にまで「 仏教 」として伝わってきているということは、
それが「 偽のお経 」だということで単純に切り捨てられるようなものではなく、
このお経から、お盆の行事の大切な意義を、学ぶことができるからなのだと思います。


ここで『 盂蘭盆経 』のお話のポイントを整理すると、

(1)目連尊者は「 神通力 」といわれる特殊能力を持つ人だった。

(2)目連尊者の観たイメージは「 餓鬼道 」に堕ちて苦しんでいる母親の姿だった。

(3)安居を終えた僧侶たちに「 布施 」をすることで、亡くなった母も救われ、
   目連尊者も救われた。

という3点になります。

では、この3つの観点からこのお経の内容を、読み取り直してみましょう。




(1)目連尊者は超能力者!?


お釈迦さまが35歳で悟りを開かれて、80歳で入滅されるまでの45年間で、
直々に教えを説かれたお弟子がどれくらいの人数いたのかは分りませんが、
後世に仏教を伝えられた重要なお弟子さんが、10人いたと伝えられています。

「 二菩薩 釈迦十大弟子 」 棟方志功




「 十大弟子 」といわれるその1人目に数えられるのが
「 舎利弗( しゃりほつ・サーリプッタ )」で、
「 智慧第一 」といわれる特別に学問に優秀な方でした。


そして、その舎利弗とは幼馴染みの関係で、
二人そろって出家をしてお釈迦さまの弟子になられたのが、
『 盂蘭盆経 』に出てくる「 目連( もくれん・モッガラーナ )」です。


この人は「 神通第一 」ともいわれて、超人的で不思議な能力の持ち主だったようです。



テレビ番組などでも、スプーンを曲げたり、手をふれないで物を動かしたり、
見えないはずのものを見ることができたり、
そんな人が取り上げられて紹介されていることがありますが、その真偽はともかく、
普通の人には到底できないような特殊で不思議な能力を持っているとされる人は、
いろんな時代の、いろんな場所にいたし、現在にもいるようです。

こうした非凡な神秘性は、宗教といわれるジャンルにおいては欠かせない要素であって、
現代においてもカリスマ的な影響力を持つ「教祖様」が、
自らを「超能者」であると公言していることもあります。


身体や心の痛みを和らげてくれるような超能力であれば歓迎もされるでしょうが、
スプーン曲げやトランプの数当てをしたところで、
それは手品とそれほど変わらないことであって、
普通の人には持ち得ない不思議な能力があったとしても、
それを使いこなして何かに役立たせないことには、
まったくといっていいほど意味がありません。

ましてや、何もわからない普通一般の人々に対して、あることないこと自分の都合で
適当なことを言っているだけであれば、それは社会にとって有害なものにもなります。


記憶力がものすごく良くて、とても勉強ができる人であったとしても、
それを役立たせられなければその才能にあまり意味の無いこととも同じで、
結局のところ、人よりもただ才能に優れていればそれでよいというものではなく、
それを如何に人や社会のために使えるかということこそが重要なのです。

知能指数が高ければ高いだけ完璧に近いかというと、必ずしもそうとはいえず、
常識では計り知れないみんながあっと驚くような超能力を持っているからといって、
それが万能であることと同じなわけではありません。

どんな人であっても「 一切皆苦( 思うがままにはならない )」ということこそが、
みんなにとっての本当のことであり、まずは気づくべきことなのだと、仏教は説かれます。


神通第一として『 盂蘭盆経 』に出てくる目連は、想ったことを
目の前にありありと映像のようにして浮かび上がらせる能力がありました。

けれどもそれによって、自分が幸せになったり、人に感謝されたりしたわけではなく、
その能力によって、自分が悩み、苦しみ、迷っているのです。


智慧といわれる優れた「 知性 」の能力も、神通といわれる不思議な「 感性 」の能力も、
それらをバランスよく使いこなせてこそ、仏の悟りが開くための才能にもなるのであって、
舎利弗の「 智慧 」も、目連の「 神通 」も、それに偏りがある限り、
その人の「 特性 」や「 個性 」をいっているのに過ぎません。



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