住み慣れた故郷、釈迦国の城門からひとり旅立たれた青年ゴータマ・シッダルタは、
新しい修行生活にかける希望を胸に、ただ一人各地を遍歴して歩き、
静座、瞑想、沈思する日々を過ごされます。

そしてその後、当時の優れた思想家たちが多く住んでいた文化の中心地を訪ね、
数多くの弟子を持つ有名な仙人に師事して、精神統一の修行をされました。

その師の指導のもとに禅定(精神統一)の修行に入られたシッダルタは、
師も驚くほどの短期間で「物質的存在がまったく無い無限の空間を観ずる」という
純粋意識の境地に達しました。

けれどもその境地にいられるのは、禅定に入っている間に限られたものであり、
その心の状態を日々の上にも持続し続けるということは、事実上不可能なものでした。

物質的存在に他ならない自らの身体と、その精神が乖離してあることは決してありません。

自己存在を偽りなく見つめることによって、その境地が真実の悟りではないと判断し、
シッダルタはその師のもとを去ることとなります。


そして次には、その地で活動するもう一人の高名な仙人に師事しましたが、
またしても短期間の修行で、師の指導する禅定を習得されます。

その境地とは、「 思いながら思わず、ものを見ながらものを見ず、
考えを消しもせず、考えもしない 」という究極的ともいえるほどに高度な禅定でしたが、
そうした境地に入られてもなお、それは完全な悟りではないことを見極められます。


シッダルタは、自分自身の一時的な精神の開放状態を求めていたわけではなく、
人間存在の普遍的性質である「 苦しみ 」からの根源的な開放こそを求めていたのであり、
二人の仙人によるそれぞれの教えは、それには程遠いと感じられるものだったのです。

生まれ、老い、病いになり、そして死ぬ。

生老病死の苦しみとは、自らの肉体を生きざるを得ない人間存在ゆえのものであり、
一時的な精神の状態がどれだけ素晴らしく、この上なく感じる境地であったとしても、
人間の身体性より生じる根源的な問題からは、決して離れられるわけではありません。

シッダルタは、自分を誤魔化したり、
自分に嘘をついたりできるような人ではありませんでした。

そして、真実の悟りを求めてその地を離れ、
ついには、「苦行林」へと足を踏み入れることとなります。



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